2002/01/27 (日)
★教研集会:「体罰は必要」高校生らから肯定論続出 (毎日)
さて、某所にてアスキーアートを拾ってきたユリです。現在も生存中という響きが笑えます。それにしても、ユリの名前は「ユリ」なのに、たいてい「ゆり」と書かれますね。まぎらわしいサイト名にしたユリがいけないんでしょうか。
そんなわけで、今日のニュースです。
生徒側から「体罰も必要」という意見が続出し、日教組のお偉い方が狼狽しているようです。でも、これは生徒側の立場にとってすればおかしくもなんともない意見だと思います。むしろ、こうした意見を想定していなかった日教組の連中がアホに見えますね。
「生徒」というひとつのものは存在しません。それは単なるカテゴリに過ぎず、実際にはたくさんの個人が存在するわけです。ただ、それではいろんな論議がしにくいため、また人間は平等であるという観点から、仮想的に「生徒」という存在を作り上げることが多くなります。これがくせ者です。
「生徒」にレッテルを貼ると、あたかもそれが全ての個人に適用されているような錯覚を起こしてしまうのです。日教組側からすれば「生徒は勉学に励む子供で、権利を守って立派な大人に育ててあげなければならない存在」であり、下世話なマスコミからすれば「キレやすく、何を考えているかわからない存在」になってしまいます。これでは、そのレッテルから外れた個人からすれば、たまったものではありません。
真面目な個人からしてみれば、アタマが悪くて性格悪くて犯罪犯している人間と同列に扱われては迷惑千万なだけではなく、そんな人間を野放しにされているおかげでイジメのような直接的被害も受けている現状があります。人権だのどーだのと議論を繰り返した挙げ句、加害者被害者いっしょくたに保護する日教組の姿勢に不満を持つ個人がいてあたりまえでしょう。
どんどん体罰してイジメっ子を取り締まれ、とはユリも言いませんが、そんな意見が出てきてもあたりまえだとユリは思います。生徒側からすれば、はがゆい部分も多いのでしょう。
そして一番の問題が、これらの意見に困惑気味に答えた教育学教授の言葉です。ユリは、この言葉に危機感を覚えました。ニュースソースから丸ごとコピーします。「家庭でも体罰が行われ、学校にも厳しさを求める九州という土壌が反映されたようだ。関東などとは違った反応かもしれない。しかし、体罰は人権侵害ということを理解しないといけない」と。
たしかに関東や首都圏では、「絶対体罰反対」という意見の方が多いかもしれません。数字的に加害者が多いからです。また、「体罰=人権侵害」というのはムチャクチャです。「いきすぎた体罰」はたしかに人権侵害ですが、体罰以外に即効性のある罰則が存在しない以上、現在の学校はすでに極端に罰が与えられない環境になっています。ただでさえ警察の介入を拒む体制の学校ですから、そこは治外法権に近い場所とも言えるでしょう。逮捕されにくい社会で損をするのは真面目な住人です。
本当の人道的な平等とは誰もかれも平等とするのではなく、努力や姿勢に見合った対価として環境が与えられる状況のことを言います。実現はとても難しいにしても、同じ世代に生まれただけの子供たちを全て同じように保護しようとする日教組の理想論と、極端に能力実力主義の学歴社会との狭間に押しつぶされるのはいつも当の子供たちです。せめてもう少しだけ、子供たちの立場に立って考えてみてほしいものだと思います。
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