2004/04/25 (日)
★適当に思ったことをつらつらと(ゆり☆にゅーす)
さて、奮発して「湯けむりスナイパー」を一気に13巻まで新品購入したら、全巻初版で泣きそうなユリです。そんなに! そんなに売れてなかったのかぁぁぁ! だから、だからっ、連載終了なのかぁぁぁっ! そんなわけで嬉しいはずなのに微妙に落ち込んでいるので、今日はニュースではなく少し思ったことを書いてみようと思います。
世の中には「こうであること」と「こうであってほしいもの」があります。「こうであること」は純然たる事実であって、それはそれでどうにも出来ないことなんですけど、「こうであってほしいもの」は、人によって違ったりするわけです。言い方を変えれば、「こうであること」は人に依存せずに先天的に与えられていることであって、「こうであってほしいもの」は最初にその人の希望が存在する後天的なことです。 とはいっても、この言い方は人を人類そのものとして例えた場合の言い方であって、実際にはこの境はあいまいになっています。なぜなら、親は子供に「こうであってほしいこと」を「こうであること」のように教えたりするからです。端的な例として「正義は勝つ」というような道徳的言葉があります。この言葉が絶対的な正しさを持つと思っている人は、年齢が高くなればなるほど減っていくわけです。でも、子供向けの物語では、正義は必ず勝つことになっていますし、実際正義が勝つことを信じていた子供時代があったことでしょう。 さて、実際には「正義は勝つ」ことは事実なのでしょうか。
ぶっちゃけてユリの考え方を言えば、それは「ウソ」です。事実ではないと思います。でも、「事実であってほしいもの」ですから、子供には事実であると教えるべきだとも思います。つまりユリは「子供にウソを教えろ」と思っているわけですね。サンタクロースの話と一緒です。 子供はそうした大人たちのウソを見抜きながら、成長していくものだと思います。そしてそれは、実は一生続くことなのです。成人しても見抜けないウソ、子供を生んでも見破れない欺瞞、そんなものがこの世の中にはたくさんあります。もし、その一生誰も見破れないウソの中に「正義は勝つ」という言葉があったとしたなら、全ての人々が「正義は勝つ」ことを信じ続けることになって、本当に「こうであること」になるかもしれません。だから親は、「こうであってほしいこと」を大切に、子に伝えていくべきだと思います。
しかし、環境の変化は、こうした連鎖にも影響を及ぼしました。多くの情報が溢れかえるようになって、子供はいともあっさりと親のウソを見破るようになってしまったのです。親もそれを知り、見え透いたウソはつかなくなります。そのため、「こうであってほしいこと」は居るべき場所をなくし、「見え透いたウソ」と「こうであること」の二項目に振り分けられてしまいました。わかりやすいウソにわかりやすいホント。その構図はやっぱりわかりやすいです。人はわかりやすい分類を好みます。
でも、「人間は全て平等」だとか「命は地球よりも重い」だとか「愛は地球を救う」などのあからさまにウソ臭い美辞麗句を、ただのウソと割り切ってしまうのは寂しいとユリは思います。重要なのは「こうあってほしいと願う人がいるということは、実際にはこうでないからだ」という点であって、「望まれているのにどうしてそうならないのだろう」、と考えることが大切なのではないでしょうか。それが引いては「こうであること」を知る、つまり現実を知ることに繋がるのだと思います。
というようなことを、ここ最近のニュース番組を見ながら思ったりしてました。 ちょっと未整理でわかりにくいまま書いてしまいましたけど、うまく伝えられなくても自分のために書き残しておこうと思ってのことですので、一読してよくわからなかったら忘れてください。「湯けむりスナイパー」でも読んで。
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