2003/03/22 (土)
★簡単に、戦争について(ゆり☆にゅーす)
さて、「反戦」は「戦争」に対する「戦争」であることを認識すべきであり、その覚悟がなければ「戦争」を「滅ぼす」ことはできないと考えるユリです。本来ならこのサイトでは、そうした「ほとんどの人が言及していること」は触れないのが基本なんですけど、まぁ予想とおり掲示板の方で話題が出てしまっているので。掲示板でのレスは軽く返す代わりに、今回はこちらのページで簡単に所感を書いてみようかと思う次第です。
国家間の戦争に対する議論において、ちっともすっきりとした答えが出ないのは、結局「個人」と「団体」という観念が入り乱れたまま論議されるからだと思います。そして特に難しいのは、人間は自分の意志で所属する「国家」を選ぶわけではないということでしょう。戦争をしたくない人、戦争をしたくてたまらない人、そんな個人の意志から遠いところで、戦争は起きます。
国民の総意が国の意志、なんて甘っちょろいことを信じている人は、一度、あなた自身がたったひとつの細胞のために行動しているかどうかを省みてください。人間の集まりである「国家」は、すでに人間ではありません。国自身のために行動するものです。
そして個人の世界に「ケンカ」がなくならないように、国家間に戦争がなくなることはないでしょう。逆を言えば、戦争のない社会が実現できるのだとすれば、犯罪のない社会ができるはずです。
だからといって、ユリは戦争を「必要悪」として認めるべきだ、と言いたいわけではありません。脳天気に「戦争はやめるべきだ」としか言わない人間たちに、口にするだけで殺人や強盗がなくなるかと訊ねたいだけです。
それに、軍隊の存在を黙認しておきながら、いざその組織が役目を果たそうとしたとたん抗議するというのは、覚醒剤の流通を認めておきながら常用者を糾弾することぐらい不思議です。もちろん、平時から軍備反対を唱える人たちもいますけど、にわかにわき上がる「反戦」の声がユリには不可解なのです。戦争自体に反対するのなら、全ての戦術兵器を否定するべきだと思います。とりあえず今回の戦争のみに反対、というスタンスならわかりますけどね。
というわけで、最初の主張です。戦争反対を訴えるのなら、有事のみに発言するという甘えた根性では無意味です。常に、あらゆる武力行使に意義を唱え、行動するべきです。国家の武力行使に、「宣戦布告」するべきです。
行動といっても、いろいろ方法はあると思います。偉大なる宗教家たちは、国に宗教を説いたりもしました。でも、それは効果は弱くて当たり前だと思います。国家に個人向けの宗教を解いても意味がないでしょうから。それなら、「国向けの宗教」で説法をするのが、一番安全で、そして確実な方法のような気がします。
「国向けの宗教」で、現在一番有力なのが「資本主義」。
そうです、もっとも効果的だと思われる反戦活動は、「金を動かすこと」だとユリは思うのです。似たような論旨で、「反戦論者は総理大臣や大統領になればよい」と言う人もいますけど、彼らは基本的に恣意に行動することは許されていません、独裁国家でなければ。しかし大金持ちの行動は自由です。扱う金額のケタが国家予算に近くなれば、国とすら対等に発言できるようになるでしょう。出したり奪ったりすることで、国民の利益を無視できない国家は要求を呑むでしょう。そしてこれは、もうお金という実弾の飛び交う「戦争」なのです。
感情的に「力なきものたち」の主張が通ったらいいな、と考えてしまう人は多いと思います。でも、主張は多様に存在し、力の持たないものたちの主張が優先的に通るようになってしまえば、状況は紛糾するばかりです。だから、自分に主張があるのなら、力を身に付けるべきなのです。この国に住まう人たちなら、生まれた途端に飢えと闘うことで精一杯な人たちと違って、それが可能なはずですから。
あいかわらず、建設的ではないお話になってしまいました。でも、ユリは本当にこう思うのです。守りたいものがあるのなら、強くなるべきだと、そう思うのです。
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