2005/11/23 (水)
★宮崎勤被告の責任能力めぐり弁論 連続幼女殺人で最高裁
さて、検索しようと思いつつ、その度に漢字が思い出せなくて断念していたところ、はるかさんが11/6に代わりにやってくれてすっきりしたユリです。はるかさんにならきっと、「ニューヨークではゴジラ松井よりも有名なおっさん」についても調べてくれるような気がしてしまいます。
と、勝手にむちゃくちゃなネタを振っておいて、今日のニュースです。
今日の、という割りには、数年前と何の進展もない内容だと思います。「死刑」を断罪の手段とできるのは、相手に死への恐怖があればこそ、という前提の通じない場合にどうすればよいのか、なかなか興味深いテーマなので見守ってはいるんですけど……いいかげん飽きてきた頃合いかもしれません。
人間にはタテマエやら社会的通念やらのしがらみが多いので、死刑になってもいいならさっさと死刑という展開にもなりにくいようです。死刑そのものに疑問を感じている方々の意見はこの場合には煩雑になるので無視するとして、問題は罪を償わせたいと思う方々の意見ですね。この男が反省するとは思えないので、かなり苦難の道なのは仕方ないですけど、その目的のために十年も働かずに生かされ続けている事実は問題自体にも重苦しくのしかかっているような気がします。
責任が取れるかどうか、その判断も重要ですけど、判断がつけられるまでの待遇についても議論しておかなければ、今後更に増えていくと予測できる精神的逸脱犯に対応しきれなくなっていくのではないか、とユリは思います。麻原にしても、まだ生きているわけですし。逆に責任能力を「ある」と判断されて、あっというまに死刑実行された宅間のような例もありますけどね。
というわけで、あるかないかの判断が難しい状況ならきっと責任もゼロってことはないだろうと思うので、待ち時間はさっさと拘置所ではなく刑務所に入れておけばいいのに、と思った次第なのです。で、死刑か無罪か、ではなく、死刑か懲役X年の二者択一にしてしまえ、と。もちろんXには、裁判にかかった年数が代入されると。
この十年間、宮崎はメディアにも間接的に登場しています。その状況を、被害者の家族がどのような思いで受け止めているのでしょうか。気にはなりますけど、それを訊ねることもまた酷い気がします。この事件は逮捕当初はオタクバッシングなどの社会的運動を生み、今こうして責任能力の有無についての論議を呼び、そして長期化する裁判に対するマスコミ、ジャーナリズムの取り扱い方という問題提起にもなっているのかもしれません。
そして、それらの経験が、たった今起きている事件の今後に生かされますように、心から祈っておきます。
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