2003/07/10 (木)
★補導の12歳通う中学校で全校集会 長崎園児誘拐殺人 (朝日)
さて、ユリです。
えっと、んー、んー、よもや12歳だとは思っていなかったので、ちょっと思考が混乱気味です。論じてみる気も起こらないといいますか。
今回の事件の前兆でもあった性的いたずらの事件が、四月に起きていたそうですから、その時なんてほんとに小学校を卒業してすぐだったわけで。これが不良グループの最年少としての集団犯罪ならば、まだ想像ができますけど、単独でこんなことを実行できる12歳というのは、ちょっと想像の範疇外でした。
それというのも、ユリの感覚では自我が目覚めて「自分でどうこうする」という欲求が顕著になるのが中学生時代であり、小学生のうちは親や社会は庇護をしてくれるもの、そして畏怖の対象でもあるという認識が先に立っていると思っていたからです。もちろん、これは現代の日本における感覚ですけども。
子供のうちは、親や先生が怖くて、言うことをきいたりします。でも自意識が芽生えると、それらが恐怖を与えるだけではなく自分たちを保護してくれていると認識するようになります。ステレオタイプなケースに過ぎませんけど、そうして育っていくのが普通だと思います。でも、全てがそうであるということもまた、ないということなんでしょうね。
混乱しているついでに、思ったことをつらつらと書いていきます。
今回のケースで感じたこと、そして過去に起きた「某14歳」のケースと比べて思ったことをを大雑把に表現するのなら、アクセルとブレーキのバランスだと思います。
内なる衝動を、突き進むための「アクセル」とするのなら、それを押し止める理性や回りの環境が「ブレーキ」です。これは別に、犯罪行為以外にも当てはまる例えです。お金が欲しいという「アクセル」があっても、これを普通の人は労働対価として得ることで「ブレーキ」をかけて、強盗などの反社会的行動という「暴走」を避けているわけですから。
そしてこの「アクセル」と「ブレーキ」は、それぞれ独立したものとして考えることはできません。走らなければ止まる必要はないですし、どちらもなければ進むことすらできません。
犯行へと向かう欲求が強くても、それを押し止める強力なブレーキがあれば、実際に犯行がおこなわれることはないでしょう。つまり、「暴走」の理由として挙げられる状況は次の二つになります。「欲求」が強すぎてブレーキがきかない、あるいはブレーキが弱すぎて「欲求」を押さえきれないの二つです。
過去に起きた「14歳」の事件では、本人の妄想で埋め尽くされたノート、新聞社に送りつけた声明文、そしてみずからの所業を誇示するかのような演出など、明らかに目的があり、計画的でした。その目的が大多数の理解の及ばないものだとしても、その「犯行」には目指すところがあったわけです。
これは「物語をつくること」に似ています。シナリオがあり、演出があるからです。そしてこの作業は、理性によっておこなわれるべきことであることが重要になります。つまりこの犯人は、順序立てて物事を理解し、また自分で構築できるだけの理性を持ちながら、犯行におよんだことになるからです。
つまりこのケースは、ブレーキとなる理性がある程度発達していながらも、それを上回る妄想的な衝動を押さえきれなかった形になると思います。
一方、今回のケースはどうでしょうか。まだまだ情報が少ないんですけど、ユリにはどうしても「計画的」であったようには思えません。場所にしても殺害方法にしても、いきあたりばったりな感じがします。頭にあるのは、きっと欲望を充足させることだけだったのではないでしょうか。性的な欲求が逸脱して暴走を始める、というところまでは、やっぱりいけないことには違いないですけど想像できます。でも、その先の最後の一線、「人殺しはよくないこと」というラインをあっさりと越してしまったような気がするのです。これはもう、「ブレーキ」が機能していないのと同じことでしょう。
わかりやすくまとめると、「14歳」のケースでは「殺人」を悪いことと認識している上でシナリオを描いて犯行に及んでいることになり、逆に「12歳」のケースではまるで「殺人」という行為に忌避感が感じられないということになるかと思います。現状の情報でここまで言い切るのは拙速な話かもしれませんけど、今回の記事にもあるように犯行から逮捕されるまでの一週間に、取り乱したりなどの顕著な異変が認められていないことから、当人の罪悪感の希薄さが伝わってくる気がします。
走り書きついでに、「殺人」についても少し、書いてみますね。
人殺しはいけないことです。法律で禁止される以前から、人類は基本的に「殺人」を禁止してきました。それはもちろん、自分たちの所属する社会の秩序のためでもあり、また自分が殺されないためのものでもあるからです。
そして、この「自分の所属する社会」というのが、重要な意味を持ちます。つまり、自分の所属していない社会の人間なら、殺してもよかったのです。わかりやすく言えば、それはつまり戦争です。敵国の人間なら、殺せば殺すほど偉くなっていくのです。というより、どこの国でも戦争時には、敵国の人間を「人間」だとは考えません。動物に置き換えたりすることによって、倫理に背かないようにして殺します。
そして世界大戦は終わり、局地戦争と無縁な生活をおくる今の日本のような国が増えました。各国と交流が深まり、今ではアメリカ人を鬼畜と呼び称する人も少なくなりました。使い古された言葉を使うなら、グローバル化が進み、インターナショナルなわけです。自分たちの所属する社会は「日本」というエリアだけではなく、「世界」、つまり地球という範囲に拡大してゆきます。そうなれば人類みな兄弟、おなじ人間同士殺しあうのはよくないよね、ということになります。
……なんて思ってるのは、楽天家のジョン・レノンだけなのかもしれません。人殺しも戦争も、全然なくなりません。それもそのはず、地球はひとつでも、人間はたくさんいるからです。コミュニティは、有象無象に独立を宣言してゆきます。その極端な例が、ユリがしばしば問題視している「個人主義」です。厳密な定義で捉えないで、ここでは「個々人の主義」ていどに理解してほしいと思います。
個人主義のどこが問題かというと、それはしばしば「個人を最小のコミュニティとする」からです。そうなると、他人は全て他のコミュニティ、つまり他国ということになり、貿易めいたギブアンドテイクは存在しても、同じ社会を形成しているという感覚は弱くなります。こうなると、戦争という名の殺人が起きる可能性が高くなってしまいます。
ユリはもちろん、「個人主義」というものを全否定しているわけではありません。ただ、同居している人間にすら何もつたえないまま行われる凶行が増えているということは、すでに家族というコミュニティすら放棄しているような気がしてならないのです。家族で心から会話をしていれば、異変が互いにわかりあえるはずなのに。
……ユリは、ひとりで生き続ける哀しみや苦しみは、いやというほど知っています。理解しあえる家族、理解しあえる友達をたくさん増やしていって、自分だけではなくみんなで、しあわせになる道をさがしていきましょう……。
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