『幽かにくゆる煙の影』
「第二話 哀しい再会(後編)」 海並童寿
「今までどこにいたのさ、姉さん」
泰彦は能面のような硬い表情でそう問いかけた。蛍はこらえきれずにその顔から視線を逸らした。
「地縛していたの……6年ほど。動けるようになったのはつい半年ほど前よ」
「その半年の間、家へ顔を出そうとは考えもしなかったのか?」
泰彦の顔が小刻みに震えている。表情の硬さは、感情の激発を抑えようとしてのことであるらしい。
「!……」
蛍はその問いには答えずに唇を噛んだ。
「父さんも母さんも、毎日毎日、そう、今朝だって姉さんの手がかりを探して命を削ってまで危険な卜占を……俺、家に帰ってなんて言やいいんだよ! 姉さんはとっくの昔に死んでましたなんて……そんなこと言ったら、父さんと母さんまでそっちに逝っちまうよ!!」
だん、と床を踏みならす。その音が遠く部屋全体へと響いた。
「……その……大きく、なったわね」
蛍が恐る恐る、そう話しかけた。
「7年経ったんだぜ。俺、もう19だよ。とっくに、背丈も年も姉さんを越しちまった」
ぼそり、と泰彦が返す。
「あの……そう、どうして泰彦がここにいるの?」
蛍は先ほど無視された問いを繰り返した。
「この家に巣くう邪霊を祓うためだよ。さっきも言ったろ、俺ももう19なんだ。家の手伝いくらいはするさ」
「え?……じゃあ、どうして石黒さんに……」
蛍がそう言うと、泰彦はふん、と小馬鹿にしたような顔をした。
「ああ、あのいきなりトラップに引っかかってくれた愉快な野郎か。全く、こういう仕事に多重依頼なんてしたらろくなことにならないってのが、素人さんには分からないんだもんなぁ」
つまり、最初この依頼は泰彦──というより七条家に持ち込まれたのだが、依頼者が要らぬ気を回して万全を期すつもりで石黒にも依頼をしてしまった、ということらしい。この分ではひょっとすると、他にもこの結界に迷い込んだ拝み屋がいるのかも知れない。
「それより姉さん。父さんと母さんにはショックだろうけど──この仕事が済んだら、一緒に帰ってくれるんだよね?」
「だめ……」
蛍は弱々しくかぶりを振ってそう答えた。
「私……もう、七条の家には……戻れない……」
その言葉を聞いた泰彦の顔が、奇妙に引きゆがんだ。
「へぇ……そうなんだ。姉さん。俺だってもう子供じゃないんだぜ。姉さんに何があったのか、そう聞けばそれなりに推測もできるよ」
泰彦はずかずかと蛍に歩み寄った。蛍が逸らした顔を、のぞき込むように顔を寄せる。
「相手は誰? さっきの石黒とかいうアホ?」
「ち、違います! 石黒さんは何も関係有りません!」
大声を出すほどのことでもないのだが、つい顔を赤くして蛍は叫んだ。
「ま、いいや。そんなことは。とにかく、こういうことだ──」
泰彦はにやり、と粘っこい笑いを浮かべた。
「俺の好きだった、綺麗で強くて──清らかな姉さんは、もういないんだね」
「っ!!」
蛍の顔が悲痛な表情にゆがんだ。
「知らないだろうな……俺、姉さんの着替えを覗いたこと、あるんだぜ」
「え……??」
蛍が一瞬、その言葉の意味に戸惑った隙だった。
むにょり。
突然、粘着質な感覚が、蛍の右胸に生じた。
「きゃぁっ!! な、何?」
むに、むに、と……蛍の右胸を、『何か』が揉みしだいている。
「ふう……想像してたより、ずっと柔らかくて……こっちまで気持ちいいや」
泰彦の言葉に、蛍ははっ、と泰彦の顔を見た。うっとりとした表情がその顔に浮かんでいた。
「流石に霊体に直接触れられるほど修行してないからね。代わりに俺の『気』で姉さんに触れて、その感覚を味わってるって仕掛けさ……あぁ、でも、まるでほんとに、姉さんに触れてるみたいだ……」
蛍の全身にぞおっ、と鳥肌が立つ。
「や、やめて!! やめなさい、泰彦! あなた、自分が何してるか分かってるの!?」
蛍は懸命に身をよじる。だが、そもそも抱きすくめられているわけでもなんでもないのだ。いかに体をねじくっても、逃れるすべがない。
「分かってるさ。俺の大好きな姉さんだった──もうただの『女』になってしまった、その体を味わわせてもらうんだよ」
「何言ってるの!? はなしてっ! 確かに私はもう純潔じゃないけど、でもあなたの姉であることに違いはないのよ!?」
無駄とは知りながらも、なおも蛍はもがき、あがいた。
「かまやしないさ。俺の体そのものは、姉さんに触れてなんかいないんだから。だから、清浄行の妨げにだって、なりゃしない」
「そ、そんな屁理屈……ひっ!!」
『何か』の感触が、蛍の右乳首をつまみ上げた。
「可愛い……これが、姉さんの乳首なんだ……」
「い、いやぁ……お願い、やめて……」
涙を流しながら蛍は訴える。だが、泰彦の『気』は、つまみ上げた乳首をくりくり、となぶり、転がした。
「あ、やっ、うくっ、やあっ!!」
「あれ?……姉さん、あんなこと言っておいて、実の弟の俺に乳首いじられて、感じてるんだ?」
嘲笑の混ざった泰彦の言葉が蛍に突き刺さる。
「ち、ちがいますっ、か、感じてなんか……ひゃぁっ!!」
いきなり左の乳首にも、同じ攻撃が加えられた。
「じゃあ、その甘ったるい声はなんなのさ? いいよ、姉さんがいくら言葉で否定したって、体の方さえちゃんと俺を感じてくれれば……」
泰彦がそう言うと、蛍の両方の乳房に同じ刺激が走った。全体をやわやわと揉みながら、固く尖った先端部のてっぺんをこしこし、とこすり立てる。蛍の体が規則的にひくっ、ひくっと痙攣し始めた。
「あ、や、やぁ、ん、く、い、いや、あぅっ、や、やめ、うぁっ、う、いっ……」
「姉さんってこんなにおっぱい大きかったっけ? ま、俺だって遠くからしか見たことしかないからなぁ……ふぅ、柔らかくて可愛くて、最高だよ、姉さんの胸……」
「う、うっ……あ、んんっ……く、えぐっ……」
乳房を揉み立てる動きは激しさを増し、乳首への攻撃も激しく多彩になっていった。つまみ上げ、こすり、転がし、押しつぶし、時にざらついた湿った感触が走るのは、舌を模しているのだろう。さらに時折、固く薄いものがそっと乳首を挟みこむ感覚──これは甘噛みのつもりなのだろうか。
「ふぅ……さあて、そろそろ待ちくたびれたところにご褒美をあげなきゃね……」
陶然とした口調で泰彦が呟く。そして、
「あ、ひゃあっ!! だ、だめ、そこは、そこは絶対だめぇ!!」
蛍は叫んだが、既に「そこ」に泰彦の『気』は届いていたのだから、今更な拒絶ではあった。
「やっぱりね、熱くて、それに少しだけどヌルついてる……ねえ、俺は嬉しいよ、姉さん」
泰彦はひくひくと震える蛍の顔に自分の顔を近づける。
「ちゃあんと、俺の愛撫でも、こうなってくれたんだ──」
そして、「そこ」──蛍の秘裂へと、『気』を埋め込む。
「あああ、や、やぁぁぁぁっ!!」
そこは泰彦の言葉通り、熱くぬかるんでいた。にち、にち、という粘っこい水音が漏れ聞こえる。
「ふふ、姉さんは子供の体のままだから、なんだか妹を犯しているような気になってくるよ。変だね……」
(変……なのは……あなたですっ、泰彦……)
言葉を紡ぎたいが、蛍の口はもう彼女の意志を表現する役割を放棄し、刺激に耐えかねた呻きを漏らすだけのものになってしまっている。
「あぁ……叶うことなら、姉さんのそこに口をつけて、その蜜をぜんぶ啜りたいよ……すごく淫らに濡れてくるね、姉さんのここは」
くちゅくちゅとせわしなく水音が立つ。指を模したらしい『気』は、一つは秘裂の底を何度も往復し、一つはラビアをせわしなく引っ張り、一つは莢から引き出した快感のスイッチに執拗な攻撃を加え、一つは胎内へと続く秘洞へと少しずつ深度を深めながらストロークを繰り返す。それが全部、同時に蛍の意識に激しい稲妻を散らす。
「ああっ!! ん、ひっ、うくぁ、ひゃ、あ、きひっ、うっ、にゃっ、りゃ、ひぅぅぅん!!」
快感を訴えているのか苦痛を訴えているのか分からないほどの激しい声が蛍の口からほとばしる。
(お、おかしいわ……7年の間何があったかなんて、分からないけれど……泰彦は、嫌がる女の子に無理矢理こんなことするような非道い子じゃなかった……絶対、何かおかしい!)
この場合幸不幸どちらと言ってよいのか微妙だが、これほどの責めを受けながら蛍にはまだ、冷静な判断力が残っていた。
不意に、蛍の体から全ての『気』の感触が消えた
「はぁ、はぁ……え……?」
荒い息をつきながら蛍が怪訝な表情で泰彦を窺った。
「さっきも言ったけどさ、俺、姉さんの着替えを覗いてたんだ……それも、何度も……」
泰彦は不気味にすら見える笑顔で蛍を見ていた。
「綺麗だったよ……俺に覗かれてるなんて知りもせず、ブラまで取って、パンティだけの姿になって、そんな綺麗な体を俺は食い入るように見てた……勿論、情欲もあれば思春期の男の子の好奇心って奴もあったさ。でもね、俺は姉さんの裸を見て、興奮しながら、感動してたんだ」
泰彦は不意に蛍に唇を重ねた。それは無論触れあうことはなかったが、その瞬間泰彦のまなざしには邪な輝きも獣の炎もなく、澄んだ瞳だけがあった。
「正直、姉さんの裸を思い出してオカズにしたこともあったけどさ。あの綺麗な姉さんが、俺の、誇りだったんだ……」
突然、蛍の秘所に、太く固い感触が生じた。
「!!」
それが何を模した『気』なのか、蛍にも一瞬で見当が付いた。
「姉さん。俺が姉さんを綺麗な体に戻してやる。外科的な傷は治せないけど、俺の精液を『気』に替えて姉さんの膣内[なか]に送り込んであげるよ。そうすれば、姉さんはもう、汚れた女なんかじゃない、大手を振って七条の家に帰れるんだ……!!」
(そんな無茶苦茶な理屈があるわけないでしょう!!……誰? 泰彦の後ろに、誰かいる……一体、誰っ!?)
「姉さんっ……!!」
『気』の塊がみちっ、と蛍の秘唇を割り、その先端を蛍の内部へと埋めようとした、そのとき──
どがらららっっっ!!!
轟音とともに、室内に人影がまろび込んで来た。
「だ、誰だっ!!」
思わず、『気』を雲散霧消して、泰彦が叫ぶ。
「そりゃこっちの台詞だっつうの。てめえだな、このくそ面倒な結界をこしらえやがったのは」
ぐるる、と低いうなり声がその言葉に重なる。
「……石黒……さん?」
蛍は衣服の乱れを整えようと慌てた。
「お、なんだ、お前もいたのか。なんだよ、だったらさっさとこの馬鹿げた結界を壊してくれりゃよかったろうが」
人影──恭介はそう言って右手をぷらぷら、と振った。その右手を、犬の頭の形の黒い炎が捲いている。
「どのみち空間のつながり加減なんぞ覚えきれる訳がないからな。相棒に頼んで、空間の連接とやらを片端からぶち壊しながらひたすら突き進んで来たら、ここに出られたって寸法さ」
「な……そんな、力任せの猪突猛進なやり方で、俺の結界が──」
恭介の言葉に泰彦は開いた口のふさぎようもなく立ちすくんだ。
「石黒さん、この子の、泰彦の後ろに、敵がいますっ!!」
どうにか体勢を立て直して、蛍が叫ぶ。
「お、先行偵察ご苦労。さぁて、俺の十八番の出番だな」
素早く数珠を取り出し、真言を唱える。
「ガテー・ガテー・パーラガテー……」
じり、と泰彦がわずかに後じさる。
「……見えたぜ……てめえか、この胸くそ悪い仕掛けの主犯はっ!!」
その泰彦を飛び越して、恭介は右手を闇に突き刺した。
「……げはぁぁぁ!!」
声を上げて、最早人の形すら留めていない「それ」が吹き飛ぶ。
「オォォォオーン!!」
更に泰彦の呪句が「それ」を追いかけ、突き飛ばす。
「オンバザラアラタンノウ、オンタラクソワカァ!!」
部屋の壁に触れた瞬間、「それ」の姿は消え失せた。
「ふぅ……どうなったんだ、あれは」
振り返って恭介が泰彦に問う。
「空間の出口を冥府につなげました……一丁上がり、です」
と、恭介の左拳がごちん、と泰彦の頭に落ちた。
「人にさんざ苦労させといて、何が一丁上がり、だ。美味しいとこだけ持って行きやがって!」
「ふ……ふふっ」
蛍がこらえかねた様子で笑い声を漏らす。それにつられて泰彦が、そして苦虫を噛み潰したような顔をしていた恭介も、笑った。
「──つまり、最初にやって来た泰彦が、あっさり敵の手駒にされてしまったのね」
蛍の言葉に、最前から額がすり切れるほどに頭を畳に押しつけている泰彦が、いっそう頭を低くしようとした。勿論、無理な相談である。
「で、あのくそったれに操られるままにあんな妙ちきな結界を張り巡らせた、と。屋敷の人間には意識させないようにな」
恭介がその後を継ぐ。
「結局問題は解決していないわけだから……お屋敷の方は、ほかの拝み屋さんにも依頼をした。それが石黒さんにも回ってきたわけね」
「──面目次第もありません。姉さん、石黒さん」
しまいには畳に頭がめり込むのではと思うほどの力を入れながら、泰彦が消え入りそうな声でそう言った。
「いいのよ。問題は解決したのだから」
「こらこらこらこら。いつ解決したんだいつ。大体今回の仕事のギャラは一体誰のものなんだよ?」
なだめるように言う蛍に恭介が食ってかかる。
「お、俺は勿論、びた一文頂くわけには参りません。むざむざと敵の手下に下り、皆様にご迷惑をかけ、挙げ句姉さんにあんな非道な振る舞いを……」
「それだそれ。何なんだよその非道な振る舞いってのは?」
泰彦の言葉に恭介が割り込んだ。と、恭介の目の前に蛍が飛んできた。
「ですから、それは秘密です。被害者である私が秘密だと言っているんですから、石黒さんに知る権利はありません」
にっこり笑いながらも有無を言わせない口調で念を押す。
「……はいはい。姉弟[きょうだい]仲良く人類みな平和に、ってな」
恭介はぶつくさと言って頭の後ろで腕を組み、天井を見上げた。
「あ、あの、姉さん……信じて下さい、俺、姉さんを苦しめたり傷つけたりするつもりなんて、本当にこれっぽっちも……」
そろ、と亀が甲羅の中から辺りを窺うように上目遣いに泰彦が蛍を見上げる。
「もういいです。今回の事では何も言いません。ただし──泰彦、ちょっと顔上げなさい」
「は、はいっ」
弾かれたように泰彦が上体を起こす。その顔の前に蛍がふわり、と浮かんだ。
「──私の着替えを覗いたことがあるというのは本当なの?」
「え゛」
泰彦がぎくりと身を固くした。
「どうなんですか、泰彦」
たらりたらり、と泰彦の頬を脂汗が伝う。
(ガマの油ならぬヤスヒコの油ってのでもあれば大もうけだな、こりゃ)
部外者の恭介は呑気にそう胸中で評した。
「そ、その……」
「その、何です?」
「す、すいません、本当ですぅっ!!」
絶叫して頭を下げようとする泰彦。しかし、
「ていっ!!」
蛍の右手が泰彦の額へと電撃のように伸びた。
「ぎっっやぁぁぁぁぁ……」
途端、悲鳴とともに泰彦は逆に反っくり返って、ひくひくと痙攣し始めた。
「……なにやらかしたんだ、お前」
呆然とした様子の恭介に、蛍は澄まして、
「姉としての教育的指導です。深奥霊体に直接『でこぴん』をひとつ」
「そりゃ、ひっくり返るわな……」
恭介はふと数珠を手にとって、
「──安らかに眠れ、泰彦くん」
隣で蛍が派手にこけるのは知らないふりをして、そう呟いた。
「それじゃ、俺はこれで」
と、屋敷を出るなりさっさと立ち去ろうとする恭介に、
「ちょ、ちょっと待って下さい!!」
慌てた様子で泰彦が追いすがった。恭介ではなくその後について行く蛍に、だったが。
「あの、姉さん。──どうしても、七条の家には帰ってきてくれないのか?」
蛍はその言葉に、再び沈痛な表情を見せた。
「だからね……私はもう、七条の家の門をくぐることはできないの」
「姉さん。その、俺、分かってしまったんだけど……」
泰彦はそこで次の言葉をためらうように言いよどんでいたが、
「姉さんには何の落ち度もないじゃないか。姉さんさえ自分を汚れたと思わなければ、姉さんはちっとも汚れてなんかない!」
一気にそうまくし立てた。
「……ありがとう。……でも……だめなものは、だめ」
蛍はそう言って泰彦に背を向けた。
「とにかく、姉さんの今の境遇は父さんと母さんに話させてもらうよ。そして──」
泰彦は蛍の肩のあたりに手をやった。
「俺も、きっと父さんも母さんも、姉さんが帰ってくるの、待ってるから……」
そう言って、泰彦は今度は恭介の方を向くと、
「その、あのような失態を晒しておきながら、このようなものをお渡しするのは内心忸怩たるものがあるのですが……」
そう言って、懐から一枚の名刺を差し出した。
「これは、七条の家への連絡先を書いたものと思って、受け取って頂けないでしょうか?」
恭介はそれを無造作にひょいと取り上げた。
「ん。ま、一応もらっておくさ」
「あ、あの、それで……失礼ながら、宜しければ石黒さんの連絡先もお教え願えないでしょうか?」
泰彦の言葉に、恭介はうーん、と言いながら斜め上に視線をやった。
「書くもん持ってるか? こちとら日光木だらけ貧乏暇だらけの何でも屋でね、名刺なんぞ刷る金がないんだわ」
「は、はい」
いそいそと泰彦が懐から名刺をもう一枚、それとボールペンを取り出す。
「ほいほい。……っと。これ、携帯の番号な」
恭介は名刺の裏にさらさら、と走り書きをして泰彦に返した。
「ありがとうございます。どうか、姉を宜しく──それでは、失礼致します」
深々とお辞儀をすると、泰彦は慌てるようにててて、と走り去った。
「ぺこぺこ加減は確かに姉弟だな、お前ら」
蛍は苦笑した。
「変なところに共通点を見つけないで下さい」
恭介が歩き出し、蛍もその後をついて空を滑り出した。
「──あれ、デタラメだからな」
100メートルほども歩いたところで恭介が唐突にそう言った。
「何がですか?」
蛍は言って、ひょい、と恭介の横に並ぶ。
「さっきの番号。知り合いの番号の下8桁を逆にして書いてやった。どうひっくり返っても、俺の携帯にゃ繋がらねえよ」
「どうして……」
「余り関わり合いたくないんだろ。今は、家族と」
蛍はふ、と顔をうつむけた。
「会いたくなったら、こっちから電話してやれ。通訳くらいしてやる」
「……ありがとう、ございます」
小さな声で蛍はそう言った。
「おっと、そうだ。晩飯の買い物があるんだ。スーパーの中で浮いててもつまらんだろ、先戻ってろ」
そう言うと、恭介はいきなり速度を上げて歩き始めた。
「あ、石黒さん、ちょっと!」
あっという間に恭介の姿が点になる。競歩に出れば一等間違いなしだ。
「……そんなこと言われても、お部屋に戻っても私、どのみち暇なんですけど……」
とは言え、そう言われたからにはついて行くのもはばかられる。仕方なく蛍は恭介の部屋へと向かった。
そして──3時間、経過。
「遅いなぁ……石黒さん」
空中で寝そべって、横向きにころころころころ、と回転する。めまぐるしく風景が変わるくせに、三半規管のない今では目が回らずにすむことに気付いて始めた暇つぶしだったが、面白かったのも1時間が限度だった。後は、惰性でなんとなく回っているにすぎない。
「何かあった……もし、石黒さんに何かあったら……」
部屋を見回すが、電話と思われる物体は見あたらない。そうなると唯一の連絡手段は本人が持ち歩いていることになる。
不安を振り切ろうと激しく頭を振ったとき、ドアがかちゃり、と音を立てた。
「おーす」
顔を覗かせた恭介に、
「お帰りなさい!」
そう言って、蛍は笑顔を見せた。
「……そういやしばらく、んな言葉聞いたことも無かったな」
恭介はそう言いながら靴を脱ぐと、台所に直行した。
(お買い物、冷蔵庫にしまうのかしら?)
と思いきや、恭介はすぐに小さなものと箱を手に戻ってきた。
「えーと、火の気がまずくないとこは……ま、この辺で妥協するか」
そう言って適当な戸棚の上にその小さなものを置く。白い立方体の粒がぎっしりと入った、陶製のぐい飲み。
次いで箱を開け、中から細い棒を一本取り出す。戸棚の中にあったライターをともすと、その棒に火を付け、手であおいで炎を消す。そして棒をぐい飲みに突き立てた。
ふわり……と、室内に香りが漂う。
「えっ? これって……ラベンダーの……香り?」
驚いて蛍がそう言った。
「最近の線香ってのは洒落た奴があるもんだな。檜だの竹だの、他にもいろいろあったぜ」
(流石にスーパーにゃ置いてなくて、そこら中の仏壇屋ハシゴしたけどな)
それは胸中の独り言に留めておく。
振り返った恭介はぎょっとした。いつの間にか蛍の顔がすぐ側まで迫っている。
「あ、ありがとうございますっ!!」
ぎゅむっ。
「わ、こら、抱きつくな!! お前、俺にはぶつかること忘れてるだろ!!」
恭介の慌てる様子など気に留めた風もなく、蛍は恭介にぴったりと抱きついていた。
「こほん。……あのな」
話題を変えようと、恭介は咳払いをして言った。
「詮索するつもりはないし、お前が話したくないことを聞きたいとも思わないんだが……自分の家に帰れないってのは、どういうことなんだ?」
恭介とても根っからの朴念仁ではない。女性が自分の家に帰れないなどと言う場合、一般にどういう事情があるのか位は知っている。
と、蛍はすい、と恭介から身を離した。恭介に背を向けて、しばらくの沈黙の後、蛍は言った。
「私……実は、息子がいるんです」
「……あ?」
「今年で、6つになるはずです」
くるり、と振り返った蛍の顔は、どこか寂しげな微笑の形だった。
「そういう女なんです。私」
結局、蛍はその日眠るまで、その寂しげな微笑を浮かべたままだった。
第三話に続く