『幽かにくゆる煙の影』

   「第二話 哀しい再会(前編)」  海並童寿



「思い出したぁぁぁぁっ!!」
 突然の叫び声に、蛍は両耳をふさいだ。
 現在地は恭介の部屋。アパートの1DK(バストイレ付き)である。
「どうなさったんですか?」
 蛍は叫び声の主であるところの恭介に問いかけた。
「七条ってどっかで聞いたよな、と思ったら……ひょっとしてひょっとしたら、『あの』七条か、おい!?」
 蛍に顔をずい、と近づけて恭介が尋ね返す。蛍はすす、と後じさると、
「『あの』七条、ですか……多分、石黒さんがお考えの通りだと思います」
 どこか寂しげに、蛍は答えた。
「……そうだよ。七条の娘が行方知れずになったって、7年前噂になったもんだ。それが……」
 恭介は軽く顔をしかめた。
「まさか、こんなんなっちまってるとはな……」
 蛍の全身を上から下までさっと眺めやる。その足は、床面についていない。
「道理で大した結界を苦もなく張ると思ったぜ。いにしえよりの退魔の家系、七条家のお嬢さんともあれば、な」
 蛍は困ったような微笑を浮かべて、恭介の言葉を聞いていた。
「と、待てよ。確かあんとき、行方不明になった娘ってのは13才だって……」
 恭介はまじまじと蛍の顔を見つめた。
「……あの、何か?」
 居心地悪そうにもじもじとしながら、蛍が問う。
「お前、いくつだ?」
「いくつ、って……年、ですか?」
 恭介は無言で頷いて見せた。
「享年……14才、になるんでしょうか」
 恭介は再び顔をゆがめた。
「てことは何だ、お前さん行方不明になってから間もなくそっちの世界に逝っちまったってことか」
 蛍はふるふる、とかぶりを振った。
「いえ。1年足らずですが、生きてましたよ」
「7年も経ってんだ。1年ぽっちじゃ、間もなくってのと同じだよ」
 やりきれない、という表情で恭介は冷蔵庫を開き、缶ビールを取り出した。栓を開けるなりぐびぐびとあおる。
「14ね……そういや俺の妹もそんな年だな」
 蛍はぽかん、とした表情でそんな恭介を見ていた。
「あー、どうにも胸の内がすっきりしねえや。もう、寝る」
 ビールをほとんど一気に飲み干した恭介は、そのままばたん、と横になった。
「石黒さん、風邪、引いちゃいますよ?」
 蛍がそんな恭介の枕元に寄って、心配げにそう言った。
「ああ、大丈夫。俺は大馬鹿野郎だから風邪の方で避けて行く」
 そう言って、恭介は不意に閉じた目を開いた。
「て、なんだ……お前もこの部屋で寝る気か?」
「はい。それが何か?」
 いつの間にやら和装の寝間着姿に着替えて、蛍。
「あのなぁ。普通見ず知らずの男の部屋で若い娘が安心しきって寝るか?」
 呆れ顔で恭介がぼやく。すると、蛍は口元に手をあてて、くすくすと笑った。
「ふふ。こんな体ですから……触れられるわけでもなし、疑いをかけるなんてむしろ失礼──」
 ふに。
 蛍の言葉が途中で止まった。
 恭介がひょいと伸ばした指先が、蛍の左胸にめりこんでいた。通り抜けているというのではなく、しっかりと肉を押し込んで。
「お。結構あるな、お前」
「ひ」
 蛍の表情がひきつる。
「ひぃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!」
 悲鳴とともに風を捲くほどの勢いで蛍が後じさった。ただでさえ白い顔面を蒼白にして、ぶるぶると震えている。
(あいた。男に免疫のないお嬢さまにゃ刺激が強すぎたか)
 恭介は頭をぼりぼり掻きながら半身を起こした。
「悪い悪い。別にお前さんになんかしようって魂胆じゃないよ。ま、特異体質とでもいうのかね、触るだけなら霊体にも触れるんだ、これが。何か、触れられるわけでもなしって言われたのがちょいと癪だったんでな。いたずらってことで、笑って勘弁しといてくれや」
 恭介がそう言っても、蛍はしばらく身を震わせていた。ようやく落ち着いたかと思うと、蛍はつい、と天井付近まで上った。
「あの、済みません。この辺で休ませて頂きます……」
 実のところ恭介が立ち上がって手を伸ばせば届かない高さでもないのだが、それを言うと蛍がまたパニックを起こしそうだったので、恭介は敢えて口をつぐんだ。
「ああ、お休み。つか、幽霊でも寝るんだな」
「必要はないんですけど……眠った方が、なんとなく疲れがとれる気がしますので」
 そう言うと蛍はすっ、と体を天井と並行にした。ほどなく、気配が弱まる。
 それを確認して、恭介も再び体を横たえ、目を閉じた。


「……しぐろさーん」
 耳元の声で恭介は緩やかにまどろみの世界から引き戻された。
「あの、石黒さん」
 むく、と体を起こして、目をしばたたく。既に朝の光が室内に差し込んでいた。
「何だ?」
 声の方に向き直ると、制服姿の蛍が浮かんでいた。正座の姿勢で浮いているのだが……その様子はなんとなし間が抜けている。
「起こしてしまって申し訳ありません。あの、近くにお寺がないかと思いまして」
「てら、だ? 何すんだよ。自分の追善供養でも祈ってくるのか?」
 目をごしごしとこすって恭介は言った。
「いえ、その、ごはん……です」
 蛍は微かに頬を染めてそう答えた。
「メシなら今から暖めるぞ。レンジで1分手間無く簡単、ほかほかご飯の出来あがりだ」
 完全に立ち上がって、恭介は台所へ向かうとレンジ用米飯のパックを漁った。
「そうじゃないんです。あの、線香の煙を」
「線香の? 煙?」
 怪訝な顔で恭介は蛍に問い返した。
「煙というか、正確には香りなんですけど。霊体にはあれが一番合うんです」
 蛍はにこにことそう言った。
「線香ねぇ。……んなもん上げる寺は残念ながら近くにはないな」
 恭介がそう答えると蛍は一転、しょんぼりした顔つきになった。
「なんだ。線香の匂いかがないと弱っちまうのか?」
「弱るというか……ひもじいです。もちろん、だからといって死にはしませんけど……」
 ぐにぐにと指を絡めてもてあそんでいる。
「一日何本要るんだ?」
「は、はい? ええと、一本頂けば充分ですけど……」
 不意を突かれて蛍が慌てて答えた。
「なら今日中にスーパーで買っとく。線香台なんてないから、そいつはぐい呑みに塩詰めて代用させてもらうが」
「あ……」
 蛍の表情がぱっと明るくなった。
「有り難うございます、そんなことまで……」
 恭介はぱたぱた、といらだたしげに手を振った。
「んなことで一々感激して礼なんぞ言わなくていい。線香なんぞ500円も出しゃごっそり買えるだろうが」
 そう言って、恭介は今度こそ自分の朝食の支度を始めた。


 恭介はぱらぱら、と手帳をめくって、満足げに頷いた。
「よーし。本日は仕事の予定、なし。完全無欠問答無用言語道断のオフだ」
 そう言ってごろん、と横になる。
「あの……それって、喜んでいいことなんですか?」
 蛍がふよふよと寄ってきて言う。
「喜ぼうが悲しもうが事実ないもんはしょうがないだろ。休めるときは休む。これもプロの仕事術の一つだ」
 屁理屈をこねて、蛍とは反対側へと寝返りを打つ。
 途端、ズボンのポケットから『アルルの女』が響いた。
「……よく分からないんですけど、それって、携帯電話の着信音じゃないですか?」
 蛍の声に恭介は聞こえないふりを通す。
 着メロは最初の主題を過ぎてストリングスの演奏に移っていた。が、それでも鳴りやむことはない。
 着メロがループして最初に戻ったとき、恭介はついに根負けして電話をポケットから引き出した。
「はい、こちら何でも屋の石黒です」
 心底面倒くさそうに名乗る恭介。その顔が見る見るうちに真剣味を帯びていった。
「はい。……ええ、もちろん。はい。じゃ、早速今日の13時に」
 ぷちっと電話を切り、恭介は体を起こした。
「よーし、仕事だ仕事。昼飯食ったらすぐ出かけるぞ」
「……休めるときは休むんじゃなかったんですか?」
 ぽかんとした蛍の口調には皮肉の色も非難の色もない。単純にとまどっている様子だった。
「稼げるときには稼ぐ。これがビジネスの鉄則だ」
 意気揚々とそう言ってストレッチを始める恭介。
「あの、それで……私、お手伝いにご一緒しても構いませんか?」
 蛍の声に恭介は振り向かずに答えた。
「だから、どうせノーっつっても付いてくる気なんだろ? まぁ、お前さんが七条の娘だと分かればそう不安もねえや。そう滅多なことでやられるようなことはなかろ」
「では……ご一緒させて頂きます」
 蛍は恭介に向かって、深々と頭を下げた。
 そして、正午過ぎ。昼食を片付けた恭介はさっさと出発した。その後に蛍が従う。
 商店街のアーケードを通り抜ける道で、不意に蛍が足を止めた。
「ん?」
 後ろをついてくる気配がなくなったと思い、ひょいと振り返ると、蛍は花屋の店先で並べられた花にじっと見入っていた。
(何をやってんだ、あいつは)
 仕方なく来た道を引き返す。恭介は蛍の背後に回ると、ブラウスの襟を後ろからつまみ上げた。
「きゃっ」
 驚いた様子で振り返る蛍に、恭介はささやいた。
「今仕事に出かける途中なんだぞ? 何、花なんぞに見とれてるんだ」
 言いながら恭介は蛍の視線の先を追った。
 そこには、薄紫の小さな花弁を一杯につけた、細い草花の束があった。
「ラベンダー、ね」
「はい。もうそんな季節なんだ、と思って」
 優しげなまなざしでラベンダーの花束を見つめる。
「好きなのか?」
 少々ぶっきらぼうに問われた言葉に、蛍は一瞬ひるんでから答えた。
「え、ええ。香りとか……」
「そか。……行くぞ」
 ふい、と恭介は再び歩き出す。ほんの少し名残惜しげに、蛍はその後を追った。


「すごい……お屋敷ですね」
 左右をきょろきょろ、と見て蛍がため息をついた。
「そうか? 七条邸だってこのくらいあるだろ。見たことないけどさ」
 気のない様子で恭介が返す。二人の目の前には壮麗な和風建築の屋敷、正確にはそれを囲む長々とした塀と門があった。
「いえ、うちはこんなに立派じゃないです。もう少しこぢんまりしてて」
「もう少し、ねえ」
 それはひょっとしてミリとかセンチの単位じゃないのか、と思いつつ、恭介は堂々とした木造の門についたインターフォンのボタンを押した。
「電話でお話を伺った石黒ですが」
 すると、
「お待ちしておりました。木戸は開いております。どうぞお入り下さい」
 丁寧な老人の声が聞こえた。言われるまま、恭介は木戸をあけて門内へと入った。すい、と蛍が続く。
 途端、
「……ちっ」
 恭介が舌打ちした。蛍は作務衣姿になり、緊張した面持ちで神楽鈴を構える。
「やっぱ、分かったか?」
 恭介の言葉に、
「はい。──かなりの規模と強度の結界ですね。先手を打たれてしまいました」
 静かな口調で蛍が答えた。
「と言って、ここまで来てごめんなさいご機嫌よろしゅうはいさようなら、と帰れるかってんだ。とりあえず──」
 恭介はすたすたと玄関に歩み寄ると、引き戸をたん、と開け放った。
「──なんじゃこりゃ」
 見えた光景に思わずそう言ったきり恭介は絶句した。
 三和土から上ったところに広がっているのはタイル張りの浴室だった。その向こうには書斎らしい本棚の列が続いている。
「迷宮結界、ですね……迂闊に動くとどこに出るか分かりませんよ」
 首をつっこんで蛍がそう言う。
「空間そのものを攪乱するってあれか? ど〜も結界の類は俺、苦手なんだよな……」
 言いつつ、恭介はひょいと扉の中へ足を踏み入れた。
「あ、駄目です、石黒さんっ!!」
 蛍が叫んだときにはもう遅かった。
「うひゃらっ!?」
 妙な叫び声を上げながら、三和土を素通りしてその下へと恭介は落下して行った。
「……入り口だけ普通に見えるなんて、どう考えても罠だと思うのだけど……」
 ふう、とため息を落として、蛍はかがみ込むと、慎重に三和土に手を伸ばした。三和土の表面に触れ、そのままゆっくりと指を沈ませる。
(? 空間の感覚が連続している……じゃあこの結界は、対象に応じて選択的に作用する、ということかしら)
 蛍に対しても同じように空間異常が作用するのならば、三和土の上の空間と三和土の下の空間の感覚は違うはずだった。だが、そのような気配はない。肘まで腕をめり込ませてそれを確かめると、蛍は腕を引き抜いた。
(どちらにせよ、ここで浮いていても始まらないわ)
 蛍は覚悟を決めると、邸内に体を進めた。
 と、視界が激しくぶれた。視覚が正常に戻ったとき、蛍は何処とも知れない部屋の中にいた。
 数本のろうそくが大きな炎を上げて燃えているが、室内全体としては暗い。それだけの巨大な空間の床面の畳敷きには、蛍光塗料で描いたかのようにうすぼんやりと光る魔法陣。そして、それらの光を受けながらもなお闇に沈む人の姿があった。
 その人物が顔を上げた。そして、ぽつりと呟いた。
「……姉さん」
 瞬間、蛍ははっ、と息を呑んだ。人物の顔が見えるほどの距離へと跳ぶ。
 その人物の顔を確かめて、蛍は呆然と呟いた。
「泰彦……どうして、あなたがここにいるの……?」
 その顔は──紛れもなく蛍の弟、七条泰彦のものだった。


   後編に続く