「秋桜 −風−」  人面石発見器


     0

 黒い骨を隠す秋桜の雪。
 やがて〈キミ〉は溜息を吐いて、足下の白い花を踏みつぶした。
 ボクは白い骨。
 〈キミ〉は螺旋階段を降り、秋桜はその乱舞を幻夢に隠す。
 ボクは白い骨。
 黒い骨に憧れ、いずれ砕け散るために〈キミ〉を見送った。

     1

「花澄ちゃんは、ホントにいい子ね」
 物心がついた頃から、ずっといわれ続けてきた。
「みんなも、南城さんを見習ってくださいね」
 いい子。優等生。それがあたし、南城花澄(なんじょう かすみ)に貼られた印。
 でも本当は違う。ううん、違うことを知ってしまった。
 あたしは小さな頃から(といってもあたしは、まだ十一歳になったばかりの小学五年生でしかない)、
「そうかぁ。あたしはいい子なんだ」
 と、他人のいいかげんな評価を信じ切って、自惚れて、ずっと「そういう自分」として振る舞ってきたと思う。
 バカなあたし。可笑しくて、笑いたくなる。本当は、「いい子」なんかじゃなかったのに。本当は、とても「悪い子」だったのに。
 あたしが「悪いあたし」を知ってしまったのは、今から一月ほど前のこと。登校途中のゴミ集積場所で、あたしは一冊の本を見つけた。
(あっ…エッチな本だ…)
 表紙の女の人。とても奇麗な人なのに、すごくエッチな格好をしていた。あたしはドキドキして、「見ちゃダメ」って思ったけど、「もっと見たい」ってほうが大きかった。
(だ、誰も…いない、よね…?)
 あたしは辺りをキョロキョロと見回して、そこに誰もいないことを確認すると、その本をランドセルの中に入れ走って逃げた。
 学校までの道のりが、いつもより長く感じた。背中のランドセルがいつもより重く、そして大切に感じられた。
 授業中。ずっとランドセルが気になった。誰かに中を見られたらどうしよう。急に持ち物検査があったらどうしよう。そう思うと、こわくてたまらなかった。
 でも、誰かに中を見られることも、持ち物検査が行われることもなく、学校は終わった。
 あたしは急いで家に帰り、部屋に閉じこもってランドセルから拾った「宝物」を取り出した。
 言葉にならなかった。あたしは、「そういう本」を見るのは初めてだったけれど、それでも見せちゃいけない場所は隠されているということくらいは知っていた。なのにその本は、全部はっきり写っていた。
 女の人も、男の人も、大切な場所が全部写っていた。
「…す、すごい…」
 お父さん以外の、男の人のアソコ。ドキドキして、息苦しくなって、男の人のアソコを口の中に入れている女の人を、とても羨ましいと感じた。
「あたしも…男の人のアソコ、舐めてみたい…」
 美味しそうだと思った。だって写真の女の人は、美味しいって顔してたから。
 ページを捲る。顔に白いモノをベットリつけた女の人が、「あたしを見て」いた。
「どう? 羨ましいでしょ」
 そういっているように思えた。
 顔の白いモノがなんなのか、あたしはすぐにはわからなかった。でも少し考えてから、
「これって、精子…?」
 答えがわかった。
 白いモノの正体。それは四年生の終わりに授業で習った、男の人の「精子」。
「でも精子って、小さくて目じゃ見えないって…」
 あたしは、勉強机の引出の奥に隠してあったプリントを取り出した。
「精子は精液と共に排出され、精子と卵子が…」
 プリントの説明。授業では精子と精液の区別がつかずに、頭の中で「?」がいっぱいになっていたけど、これで理解できた。
「そうか…この白いのが、精液なのね。白いのの中に精子がいっぱいいて、それが卵子といっしょになって、赤ちゃんが…」
 でも精液のどこに、赤ちゃんの素になる精子が入っているのだろう。精液はなんだかとても美味しそうで、精子が入っている大切なものには見えなかった。
 あたしは時間も忘れて、本に見入った。
(わっ…お尻の穴にアソコ入れてる。汚くないのかな)
(この人、おっぱいの先っぽにピアスしてる。赤ちゃんに、おっぱいあげられなくならないのかな)
 ページが残り少なくなって、あたしのアソコがムズムズして、「おしっこしたいな」って思ったとき、表紙の奇麗な人の写真が現れた。
(…やっぱりこの人、すっごく奇麗)
 お尻まである、長くて真っ直ぐな黒髪。黒目がちの大きな瞳。胸はちょっと小さめだけど、形が下品じゃない。肌なんか真っ白で、見る限りシミも傷もない。
(どうしてこんな奇麗な人が、こんなエッチな本に出てるのかな?)
 そう思いながら、うつむいてベッドに腰掛けるその人の写真を捲った。
「なっ…!」
 と、あたしは思わず声を漏らしてしまった。
「な、なにこれっ?」
 右のページ。大きな注射器で浣腸されてる奇麗な人。
 左のページ。ベッドに四つん這いになって、シーツの上にウンチしている奇麗な人。それも、すごくいっぱいのウンチ。お尻も太股も、ウンチのお汁でベトベトになっている。
 あたしは、「見てはいけないもの」を見てしまったように感じた。でもそれまでで一番ドキドキして、奇麗な人のウンチに目が釘付けになっていた。
 他人のウンチ、写真でだって見るのは初めて。あたしは震える手でページを捲った。
 見開きの写真。シーツの上のウンチに顔の下半分を埋もれさせて、奇麗な人がウンチを食べていた。
 ウンチなのに、ウンチを食べてるのに、その顔はとても、とても幸せそうで、奇麗な人が食べてるのはウンチなのに、あたしにはそのウンチが、どんな高級料理よりも美味しそうに見えた。

 その夜あたしは、どうしてもがまんできなくなって、お風呂のとき洗面器にウンチをして、そのウンチを食べた。もちろん抵抗はあったけど、押さえきれないドキドキのほうが大きかった。
 少しだけ手に取り、震える手でウンチを口に運んだ。
 とても、言葉にできないくらい美味しかった。
 口の中でとろけるウンチ。甘くて、少し苦かった。チョコレートみたい…あたしは思った。
 ウンチチョコは美味しくて、それになんだか気持ちよくて、あたしは気がついたらお漏らししていた。でもそんなこと気にならないくらい、ウンチチョコはすてきな食べ物だった。
 全部食べ終えても足りなくて、あたしはお尻の穴に指を入れて、指に着いたウンチを舐めるまでした。指にウンチチョコが付かなくなると、洗面器も舐めた。
 こうしてあたしは、「悪いあたし」を知ってしまった。
 それ以降「悪いあたし」は、大抵お風呂に入っているときに現れるようになった。
 「悪いあたし」になると、あたしは「ウンチを食べたい」っていう欲求を抑えられなくなって、「こんなのいけない。ウンチは食べ物じゃない」…そう思いながらも、
「でも美味しいから、ちょっとくらい食べても、いい…よね」
 結局あたしは、お尻の穴に指を入れてもウンチが付かなくなるまで食べてしまう。ほとんど毎日、その繰り返し。
 ウンチを食べてお風呂から上がると、あたしはフワフワした気分になって、自分がとても幸に思える。
 生きててよかった。生まれてきてよかった…って、そんな気持ちになる。
 でも、それは一瞬のこと。ベッドに入るころには、あたしは自己嫌悪に陥っている。
「また、ウンチ食べちゃった…あたし、すごく汚い子だ、ヘンタイだ」
 枕に顔を押しつけて泣く。そうすると、少し楽になれるから。
「もう二度と、ウンチなんか食べない」
 そう誓っても、お風呂に入るとまた「悪いあたし」が出てきて、お尻の穴に指を突っ込んでいる。洗面器にウンチをほじり出して、貪るように食べてしまう。
 あたしは、壊れてしまったのかもしれない。もう、もとのあたしに戻れないのかもしれない。
 あの本を拾って、奇麗な人がウンチを食べている写真を観てしまった瞬間。きっとあたしは壊れてしまったんだ。
 あの奇麗な人もそう。あたしと同じで壊れた人なんだ。ウンチを美味しいって、ウンチを食べて気持ちいいって思う、ヘンタイなんだ。
 でももしかしたら、このヘンタイのあたしが、「本当のあたし」なのかもしれない。これまでの「いい子のあたし」は偽物で、「悪いあたし」が「本物のあたし」なのかもしれない。
 あの本は「本物のあたし」に、神さまがくれたプレゼントだったのかもしれない。
「これを観て、本当の自分を知りなさい」
 そういって神さまが、あの本をあたしの前に置いたんだ。
 でも、それだったら…あたしは、これでいいのかもしれない。ウンチを食べて気持ちよくなっても、それが「本当のあたし」なんだから、いいのかもしれない。
 あたしはウンチ好きのヘンタイで、それが当たり前のことで、あたしはなにも悪くもないし、汚くもないのかも…しれない。
 …そう。きっとそうだ。
 だって、あんな奇麗な人だってウンチ食べてるんだし、あたしが食べたっていいはずだ。あたしが知らなかっただけで、ウンチを食べるのはそんなにヘンタイなことじゃないのかも…だって、あんなに美味しいんだもの。あんなに気持ちいいんだもの。
 そうか…そうだったんだ。
 悩むことじゃなかったんだ。ウンチを食べることは、悪いことでも汚いことでもなかったんだ。珍しいかもしれないけど、あたしみたいなウンチ好きはいてもいいんだ。
 そうか。なんだ、そうだったんだ。
 あたしは、あの本をプレゼントしてくれた神さまに感謝した。
「ありがとう神さま。本当のあたしを教えてくれて、ありがとうございました」
 あたしもウンチを食べ続ければ、いつかあの人みたいに奇麗になれるかもしれない。奇麗な大人の女になって、すてきな男性と出会えるかもしれない。
 そうしたらあたし、その人のウンチを食べさせてもらって、その人にあたしのウンチ食べてもらうの。
 あぁ…考えるだけで、なんだかとっても幸せな気分。
 はやく会いたいな。そんなすてきな人に。優しくて、かっこよくて、あたしだけを愛してくれるの。
 そして、
「いつ食べても、花澄のウンチは美味しいね」
 って、すてきに微笑んでくれるの。
 …な、なんだかドキドキしてきちゃった。
 あっ、もう寝なきゃ。明日起きられなくなっちゃう。
 あたしは久しぶりに、安心してぐっすり眠ることができた。

     2

 運命の出会いって信じますか? あたしは信じます。だってあたしは、運命の出会いをしたんだもの。
 教育実習生の、渡瀬優紀(わたせ ゆうき)先生。初めての挨拶で、顔を真っ赤にして固まってしまうような、気の弱い先生。カコッイイっていうよりは、なんだかカワイイって感じ。背はあまり高くないけれど、優しそうな顔と声がとってもすてきな先生。
 一目見てわかった。「この人もあたしと同じだ」って。
 どうして「そう」思ったのかわからないけれど、渡瀬先生からはあたしと同じ「匂い」がした。
 先生が来て二日目の放課後。
「先生」
 掃除も終わって家に帰ろうと教室を出たあたしは、なんだかたくさんの荷物を抱えて廊下を歩いている渡瀬先生を見つけて、その背中に声をかけた。
 だけど先生はあたしの声は聞こえているはずなのに、なんの反応もしないで廊下を歩いていく。
「先生。渡瀬先生っ」
「えっ?」
 先生は立ち止まって、首だけで振り向いた。あたしは先生の側まで駆け足で近寄る。
「最初の先生って、聞こえませんでした?」
「…あぁ、ごめんなさい。僕のことだと思わなかったので…」
 そうか。先生は先生になって二日目だもの。まだ「先生」って呼ばれるのに、馴れていないのね。
「えっと…なにか? 南城さん」
「あたしの名前、憶えてくれていたんですね」
「あ、えぇ。クラスのみんなの顔と名前は、もう憶えました」
「すごいです。頭いいんですね」
「そ、そんなことないですよ。きょ、教師として当然のことです」
 あたしは変に慌てている先生が可笑しくて、それにちょっとかわいくて、「くすっ」と笑ってしまった。
「な、なんですか? 笑わないでください」
「くすくす…ごめんなさい。先生」
 先生はやっぱり顔を赤くして、少し困ったような表情を作った。
「…それで、僕になにかご用ですか?」
「あっ、はい。ご用です」
 ご用という言葉がなんだか面白くて、あたしはわざと真似た。
「内緒のご用です。少し、耳をかしていただけませんか?」
 先生はなんのためらいもなく、荷物を抱えたまま膝を折った。いくら先生の背が高くないといっても、あたしより十五センチは高い。ちなみにあたしの身長は、百四十七センチ。体重は内緒です。でも、太ってはいませんよ。普通…だと思います。
 あたしはかしてもらった耳に顔を寄せて、
「渡瀬先生って、ウンチとか好きな人ですよね?」
 瞬間。バサッと音を立てて、先生は抱えていた荷物を廊下に落とした。
「な、な、なに、なにをいってるんですかっ」
 すごい慌てよう。やっぱりそうだったんだ。先生、あたしと同じだったんだ。
「わかるんです。あたしも、先生と同じですから」
「…へっ?」
 間の抜けた声。
「あたしも、先生と同じなんです。好きなんです、そういうの。だから、一目見てわかりました。先生があたしと同じだって」
「が、からかわないでください」
「からかってなんかいません。本当なんです。証拠…見せましょうか?」
「しょ、証拠?」
「はい。でも、学校じゃちょっと…」
 あたしは少し考えて、
「先生。茜公園って知ってますか?」
「…え、えぇ。商店街の脇道から入った公園ですね」
「そうです。そこに、今日の午後七時十分。大丈夫ですか?」
「午後七時十分って、そんな遅くまで外にいてはいけません」
 そんなに遅い時間だとは思わなかったけれど、先生…あたしの心配をしてくれているのかな? と思うと、嬉しかった。
「塾の帰り道なんです。だから、平気です」
「…そんなのは、理由になっていませんよ」
「あたし、絶対いきますから。先生もきてください」
 おたしはそういい残すと、早歩きで廊下を歩き去った。冷静になって考えると、なんだかとんでもないことをしてしまったと思ったけれど、「結果的」にあたしの行動は間違っていなかった。

「やっぱり、きてくださったんですね」
 塾の帰り、茜公園の入り口に私服の渡瀬先生が立っていた。
「…きますよ。心配ですから」
「あたしが…ですか?」
「そうです。大切な児童なんですから」
 あたしはちょっとがっかりした。「キミだから大切だ」って、いってもらいたかった。
「家まで送ります。この近くなんですか?」
「えっ? せ、先生っ」
「なんですか?」
「あの…証拠を見にきたんじゃないんですか?」
 あたしの質問に、先生は一度ため息を吐いて、
「南城さんがどうしてあんなことをいったのか、僕には理解できませんし、南城さんがどういった答えを僕に望んでいるのかも、理解できません」
「そんなっ。あ、あたしはただ…」
「確かに、僕にはそういった性癖があることは否定しません。これでいいですか?」
 先生の声は、なんだか冷たく聞こえた。あたしはなにかに、心臓をギュッと掴まれたように感じた。
 でもそれは、先生があたしと同じだというのを言葉にしてくれた嬉しさからではなく、先生を怒らせてしまったかもという恐怖からだった。
「…先生、怒って…ますか?」
 声…震えてたと思う。
「怒ってはいません。戸惑っているんです。なぜ南城さんが、僕の性癖を見抜いたのかわからないからです」
「それは…だから、あたしも先生と同じだからって…」
「僕には南城さんが、僕と同じ性癖だということはわかりません」
「でも、あたしにはわかったんですっ。だから証拠見せます。そうしたら先生、あたしのこと信じてくださいますよねっ?」
「…僕は南城さんの、なにを信じればいいのですか? 信じて、どうなるのです?」
「ど、どうなる…って」
 意味がわからない。先生の言葉は、あたしの身体を通り過ぎていっただけで、ただ…それだけだった。
 あたしは、先生が喜んでくれると思っていた。あたしと先生は同じだから、同じだということを喜んでくれると、勝手に思い込んでいた。
 あたしはなにをすればいいのか、なにを先生に伝えればいいのかわからずに、自分では意識していなかったけれど、泣いてしまっていた。
「な、南城さん?」
 泣くことでしか自分を、自分の心を伝えられない。
 子供だ。
 自分では、自分はもっと「しっかり」していると思っていたのに、こうして大人の人と一対一で向かい合うと、子供のあたしはなにもできない。なにもいえなくなってしまう。
 結局あたしは、なにもできない子供なんだ。子供でしかないんだ。大人の先生を喜ばせることなんてできないし、最初からあたしは、なにも持っていなかった。
 先生はあたしが泣きやむまで、ずっと側にいてくれた。
「ご、ごめんなさい…先生」
「謝られるようなことではありません。その…少し、困りましたが」
「は…い。ごめんなさい…」
「……」
「で、でも…あたし、本当に…」
 本当に…なんだろう? 伝えたいことはあるのに、言葉にならない。そのまま黙り込んでしまったあたしに、
「家まで送ります」
 そういって先生は、少しためらってからあたしの手を掴んだ。あたしはなんだか惨めな気持ちで、でも先生の手は温かくて、優しくて、繋がれたその手を離すことができなかった。

     3

 次の日からも先生は、あたしに他のみんなと同じように接してくれた。でもあたしは、先生を避けてしまっていたかもしれない。
 渡瀬先生が学校にいる時間は、たったの二週間。今日を入れても、後二日しかない。明日で先生は、この学校からいなくなってしまう。
 このままじゃいけない。
 そう思うのに、なにをすればいいのかわからない。
 ただ、なにもなく過ぎる時間。
 最後の授業も終わり、後は教室の掃除をして帰るだけ。あたしは錘が詰め込まれたような気分で、教室を掃除した。
 あの夜からあたしは、いろいろなことを考えた。そのほとんどは、渡瀬先生のことだった。
 あたしは渡瀬先生に、酷いことをしてしまったのかもしれない。先生は、あたしのことをどう思っているんだろう。結局あたしは、先生になにを求めていたのだろう。
 あたしは先生に、嫌われてしまったんだろうな…。
 あたしは、あたしが幸せになりたかっただけで、先生の気持ちはなにも考えていなかったのかもしれない。きっと、そうだ。
 本当に…あたしは子供だ。
 掃除が終わった教室。残っているのはあたしだけ。校庭から運動部の声が聞こえてくいる。
「…帰ろう…かな」
 あたしは机の中の物をランドセルに詰める。思わずため息が零れた。
 その時、
「南城さん。まだ残っていたのですか?」
 渡瀬先生だった。
「…せ、先生」
 あたしは石になったように固まった。
 二人きりの教室。あの夜以来、二人きりになった瞬間はなかった。あたしはこれまで感じたこともない、言葉にしようがない複雑な感情に支配されていた。
 逃げたい。でも、このままでいたい。恥ずかしい。でも、嬉しい。
 真っ直ぐに先生の顔を見ることができない。すると先生はあたしの隣にきて、
「丁度よかった。少し、お話ししませんか?」
 あたしは肯いていた。

 あたしと先生は、あたしの机を挟んで向かい合って座っている。机の表面に向ける視線を少し上に向ければ、先生の顔を見ることができるだろう。
 でもあたしは、そうすることができない。先生の顔を見るのがこわかった。
 いったい先生は、どんな顔をしているんだろう。怒った顔? 呆れた顔? 授業中のような、少し緊張した顔? それとも…。
「南城さん」
 怒った声…じゃなかった。いつもの、優しい声。
「…はい」
「僕は明日で、この学校からさよならです」
 ビクッ…肩が跳ねた。
「その後は大学に戻って、教師になる勉強を続けます。でもその前に、南城さんときちんとお話ししたかったんです」
「……」
「僕は、南城さんを傷つけてしまったのでしょうか?」
 その言葉に、あたしは顔を上げていた。先生は、困ったような顔をしていた。
「ち、ちがっ」
「南城さん…僕は、小学校の先生になるのが夢です。だから、そういう勉強をしてきましたし、これからも続けていくつもりです」
 先生の…夢? いくらあたしが子供だといっても、教育実習の先生が本物の先生じゃないことは知っている。
「これまで小学校の現場というものを勉強させていただいて、僕はこれまで以上に教師になりたいと感じました。自分が選んだ道は、間違っていなかったと感じました」
 あたしも、そう思います。先生なら、すてきな先生になれると思います。
「でも、やはり難しいですね。教師というものは」
 先生は窓のほうに視線を向けた。校庭からの声を聞いているように思えた。
「南城さん」
 先生はあたしに視線を戻し、いった。
「は、はい」
「僕にはわからないのです。南城さんの気持ちが」
「あたしの…気持ち?」
「そうです。あなたの気持ちです」
 そんなの、あたしにだってわからない。あたしは、自分がわからない。あの夜からあたしは、あたしを見失ってしまった。「しっかり」したあたしは、もう幻想の中にもいない。
「あの夜から今日まで、僕はいろいろなことを考えました」
 あたしも、考えました。
「どうして南城さんが、僕にあんなことをいったのか。南城さんが僕に求めたのはなんなのか。僕はあの夜、南城さんになにをいえばよかったのか。僕は、南城さんを傷つけてしまったのではないか。どうするのが、一番よかったのか。いろいろ、考えました」
「……」
「でも、なにもわかりませんでした。教えてください。南城さんは僕に、なにを求めていたのですか? 僕は南城さんを、傷つけてしまったのですか? どうか…教えてください」
 真っ直ぐにあたしを見つめる先生。あたしはその視線に釘付けになったように、視線を逸らすことができなかった。
 沈黙。
 あたしが口を開くまで、どのくらいの時間があったのだろう。一分? それとも十分? その間先生は、ずっと黙ったままだった。
「…あ、あたしは」
 頼りない声。自分の声じゃないみたい。
「あたしはたぶん…いいえ、きっと、先生に幸せにして欲しかったんです…」
「僕に…ですか?」
「…はい。先生に…です」
「……」
「あたしは、前にもいいましたけれど、その…ウンチとか、好き…です。ウンチを食べると、とても気持ちよくて、ちょっと変だってわかってますけれど…でも、やめられないんです」
「食べる…?」
「えっ? 先生…食べないんですか? あたしと同じじゃ、ないん…ですか?」
「えっと…それは、自分の物を食べるのですか?」
「はい…そうです。だって、誰かに食べさせてくださいなんて、恥ずかしくていえないじゃないですか。それに、ヘンタイだって思われます…でも、先生ならあたしと同じだから、食べさせてくださいっていっても、ヘンタイだって思われないと…思ったん…です」
「…それです。どうして、僕が同じだとわかったのですか?」
「それもいいましたけれど…一目見た瞬間に、わかり…ました」
「間違っているとは思わなかったのですか?」
「…あの時は、思っていませんでした」
「あの時というのは、廊下での時ですね?」
「そうです」
「…その、南城さん?」
「はい…」
「それは、僕がそうだというのは、見てわかるものなんですか? クラスのみんながそう思っているとは、僕には思えないのですが」
「そ、それは…わかっているのは、あたしだけだと思います」
「でしょうね」
「せ、先生。あのっ!」
「えっ? どうしましたか?」
「ごめんなさいっ! あたし、ずっと先生に謝りたかったですっ」
 そうか…あたしは、先生に謝りたかったのか…。
「あたしだって、ウンチ好きなのはヘンタイだって、恥ずかしいことだってわかってます。それを誰かに知られるのが、とても、辛いことだって…だ、だから、ごめん…なさい」
 先生は、なんだか表情が読めない顔で、あたしを見つめていた。
 あたしは零れそうになる涙をギュッと堪えて、
「ごめんなさい…先生」
 もう一度、思いを形にした。
 これで、先生があたしを許してくれるかどうかなんてわからない。でもあたしは、先生に嫌われたまま「さよなら」するのだけは、どうしてもイヤだった。
 あたしの中には、こんなにも先生への「好き」が溢れているのに…。
 そう思った、ううん、感じた瞬間。あたしは先生のことが「好き」だってことに、初めて気がついた。
 あたし…先生が好き。大好き。
 素直に、そう思えた。
 この気持ちを言葉にして、先生に伝えたい。でも、こわい。だってあたしは、先生に嫌われているんだもの…。
 後悔した。無邪気に先生を望んだ、先生に幸せにしてもらいなんて思っていた自分が、とても「バカな子供」だったって思った。
 あたしは先生を傷つけ、恥ずかしい思いをさせた。させてしまった。だから先生に嫌われるのは当たり前で、全部自分が悪い。
 なのに…それなのに…。
 どうしてあたしは、先生を「好き」だなんて思っていられるのだろう。
「ど、どうしました南城さんっ? どこか痛いのですかっ」
 えっ? 先生、なにいってるの? 確かにあたしは、痛い。心が、壊れてしまいそうに痛い。先生には、あたしの心がわかるのかしら?
 先生があたしを、心配そうな顔で見る。あたしは、自分がまた先生の前で泣いていることに気がついた。
「なんでもないです。大丈夫です」
 そういうつもりだったのに、あたしが言葉にしたのは、
「あ、あたし…先生が、好き…です」
 自分でも醜いと感じる、「本当の想い」だった。
 いっ…ちゃった。あたし先生を傷つけたのに、バカな子供で、イヤな女なのに、先生を「好き」になる資格なんかないのに。
 なのにあたしは、そう告白してしまった。
 こわい。あたしは先生に想いを拒否されることよりも、また先生にイヤな思いをさせてしまうかもしれないということが、何倍もこわかった。
 自分はどうなってもいい。どんな辛いことも、先生にいわれるのならいい。先生にはその資格がある。
 でもあたしに、先生を傷つける資格なんてない。あたしは先生に、一欠片だってイヤな思いをして欲しくない。
 先生は優しい笑顔で、ちょっと困ったような、いつもすてきな顔でいて欲しい。先生には、幸せになって欲しい。幸せだって、感じていて欲しい。
 先生が幸せなことがあたしの幸せなんだって、あたしはバカだけど、バカなりに、そう思った。
「ご、ごめんなさい先生っ!」
 あたしは流れる涙をそのままに、机の横に引っかけてあったランドセルを手に取って席を立った。先生の側にいるのが辛かった。
 気がついたと同時に失恋。バカなあたしにはお似合いだ。
 走って教室を出ようとするあたしの背中に、
「ま、待ってください」
 先生の声が聞こえた。
 待てるわけがない。なのにあたしの脚は、教室のドアの手前で、床に張り付いたように止まってしまった。
 動けっ! 動いてっ!
「南城さん…」
 後ろから先生の手が、あたしの両肩に置かれた。服を着ていて、温かさなんて伝わってくるはずがないのに、あたしは先生の手の平を温かいと感じた。
「せん…せい…」
 あたしは振り向いて、先生の胸にしがみついていた。
 どうしようもなかった。先生の温かさをもっと与えて欲しくて、それだけしか思えなくて、あたしは「先生に暖められるだけのモノ」になったかのように、先生に抱きついて泣いた。
 先生は、あたしを包み込んでくれた。泣いて「好きです」といい続けるあたしを、ずっと抱きしめていてくれた。
 放課後の教室。二人の世界。
「本当に、僕でいいんですね…?」
 囁くような先生の言葉。あたしがその意味を理解して、覗くように先生の顔を見上げるまでには、言葉を与えてもらってから一分以上は経過していた。
「…先生。あ、あの、あたし…」
「そ、その…できれば、返答をいただきたいのですが…」
「な、なんの…ですか?」
「えっと…僕でいいのかって、ことです。本当に、僕を選んでくださるのですか? 僕は南城さんを、恋人だと思って、いいの…ですか?」
 先生は恥ずかしそうに、でも少し不安そうな顔で、あたしを真っ直ぐ見下ろしていった。あたしは、
「はいっ!」
 たぶん、生まれてから一番の笑顔で答えた。
「もちろんです、先生。あたしを、先生の恋人にしてください」
 微笑みながら泣いたのは、これが初めてだった。

     4

 嫌われていると思っていたのは、あたしの勘違いの思いこみだった。
「こうして優紀さんとデートできるなんて、なんだか夢みたいです。あたし、優紀さんに嫌われていると思っていましたから」
 優紀さんが学校を去った週の日曜日。初めてのデートの時、遊園地のベンチでクレープを食べながらいったあたしの言葉に、
「ぼ、僕が南じょ…い、いえ、花澄さんを嫌ったことなど、一瞬だってありませんよ」
 優紀さんは慌てて即答した。
 優紀さん…恋人になってからあたしは、彼のことを「先生」ではなく、「優紀さん」と呼んでいる。恋人になって二ヶ月経った今では、優紀さんもあたしのことを、ちゃんと「花澄さん」って呼んでくれるけれど、最初の頃は「南城さん」といいかけて、「花澄さん」と訂正していた。
 本当はあたしは、「花澄」って呼び捨てにして欲しい。けれど、優紀さんには無理みたい。
「花澄って、呼び捨てにしてください」
 そういったあたしに、
「か、か、か、かす、花澄…」
 優紀さんは顔を真っ赤にして、変な汗まで流して、結局最後には、「…さん」と、付け加えた。
 あたしは優紀さんを困らせたくないから、
「…いいです。花澄さんでいいです」
 優紀さんはホッとした顔をした後、
「すみません。花澄さん」
 申し訳なさそうにいった。
 実は優紀さんは、あたしが最初の恋人らしい。なので、女の子を呼び捨てにするのには、とても抵抗があるのだそうだ。
 あたしはそう教えられて、優紀さんの最初の恋人になれたことを、とても嬉しく感じた。そして、「できることなら優紀さんの人生で、最初で最後の、たった一人の恋人になりたい」って、強く思った。
 思いがけない幸運だったのは、優紀さんが一人で住んでいるアパートが、あたしの家から歩いて五分くらいの場所にあったということだ。あたしはそのアパートの前を何度も通ったこともあった。優紀さんはそのアパートから、三駅離れた大学に通っているらしい。
 あたしはこれまでに三回、彼のアパートを訪れたことがある。大学生の一人暮らしにしては、広くてきれいな部屋。
「…お家賃。大変じゃないですか?」
 あたしの問いに、彼はなぜか心苦しそうにこう答えた。
「僕の家は…いわゆる、お金持ちなんです。この部屋も、両親が僕に買い与えてくれた物なんですよ」
「えっ? じゃ、じゃあ、この部屋って、優紀さんの部屋なんですかっ? お家賃とか、払ってないんですか?」
「ま、まぁ…そう、です」
 優紀さんのお父さまは、あたしも知っている総合病院の院長先生で、優紀さんは四人兄姉の三男、末っ子だそうだ。なのでご両親は優紀さんに甘く、その上二人のお兄さんと、一人のお姉さんも、優紀さんにとっても甘いんだそうだ。
 一人っ子のあたしには、兄姉がいる生活がどんな生活なのか、想像もつかない。昔は弟が欲しかったけれど、今は一人っ子でも寂しいとは感じていない。
 なにより今のあたしには、優紀さんがいる。いてくれる。それだけであたしは、世界一の幸せ者だ。
 優紀さんは真面目な人だから、あたしにキスしかしてくれない。あたしは優紀さんに抱いて欲しいって思うけれど、
「それは…花澄さんが、大人になるまでできません。あっ、その、だからといって、花澄さんを軽んじているわけではないですよっ。大切だから…一番大切な人だから、だから…大切に、したいんです。わかって、もらえますか…?」
 抱いて欲しいと思うのは、あたしのわがまま。あたしを抱くと、それがあたしの望みでも、優紀さんは「犯罪者」になってしまう。
 そんなのは絶対にイヤ。あたしは優紀さんを「犯罪者」にしてまで、自分のわがままを通すつもりはない。
 だからあたしは大人になるまでの時間、ずっと優紀さんを好きなまま、優紀さんに抱いてもらえるような、すてきな大人の女になるのために努力する。そう決めた。
「一番大切な人」
 この優紀さんの言葉がある限り、あたしはいつまでも優紀さんを好きでいられる。好きでいらずにいられない。
 あんなに好きだったウンチだって、
「その…あれは、身体によくないと思いますから、できるだけ食べるのは…その、控えてくださいませんか?」
 優紀さんにいわれてから、一度も食べていない。最近では、食べたいとも思わなくなってきた。
 優紀さんは、確かにウンチとか好きな人だけれども、あたしとは違って食べるのはしない人らしい。あたしにはよくわからないけれど、ウンチとかつかってするエッチなことに、興味があるだけだと教えてもらった。
 でも優紀さんは、実際にそんなことをしたことはないし、そういう写真とか、ビデオとかを、見ていただけだそうだ。
「ウンチを食べるのは、やっぱり…ヘンタイですか?」
 そう訊くと、
「い、いえ、そうは思いません。性癖は、人それぞれだと思いますから。それに花澄さんの性癖なら、それがどんなものであっても、僕は…好きになれると思います。でも、花澄さんの身体のことを考えますと、やはり食べるのは控えていだだけると嬉しいです。僕は、花澄さんが健康で、できればその…僕の側にいてくださるのが、一番…嬉しいです」
 照れた顔。でも、あたしを大切に想ってくれているのが、痛いくらいに伝わってくるような、そんな顔だった。
 あたしはこの人を好きになれて、この人に大切だといってもらえて、本当によかったと思った。
 この人の、優紀さんの側にあることこそが「本当のあたし」だったんだと、わかった。
 風が吹く。
 優しい風。あたしを優しさと、安らぎと、そして愛で包み込んでくれる風が。
 いつか読んだおとぎ話。
 少女がたどり着いた「風の見える場所」に立っていたのは、彼女が捜し続けた愛する人だった。
 あたしはその、「風の見える場所」にたどり着いたのかもしれない。
 優紀さんと出会えたことで、あたしは「風を見る」ことができたのかもしれない。
 すてきな場所。そして、すてきな人。
 あたしはこの場所で、この風に吹かれて、胸一杯の幸福を感じていたい。
 あなたと一緒ならあたしは、いつまでも「幸福の風」を感じていることができますよね? そしてあなたを、「幸福の風」で包み込んであげられるあたしに、きっとなれますよね?
 ね、優紀さん?



終わり