「ダブル(その二)」  Aristillus



     −7−

 殺意が真っ赤に燃えていた。
 怒りのあまり、俺の手は髪の毛をかきむしりながら、もう片方で、まっすぐ美和子を指差した。
「バカヤロー! さっさと出て行け! その体から出てきたら、フライパンで炒めて、ホルマリン漬けで学者の所へ送りつけてやる!!」
 生意気なことに、奴はため息をつきながら、首を振った。
「落ち着いて下さい。誠司さんに恥をかかせるつもりでは、ありませんでした。あなたと美和子さんの関係をうまくいかせる為にやったつもりでしたが、うまくいかなかったのですか? さっきまでは、あんなに仲が良いように見えましたが」
「そういう事じゃない! 何で断りも無く、俺の気持ちを見せたりしたんだ! 美和子ちゃんが怒ったり、泣いたりしたかもしれないんだぞ! 出てくって言い出さなかったのは、ほとんど奇跡に近かったんだ……」
「私には良く分かりません……。あなたに悪意が無いのであれば、保護してくれたあなたの好意を嘘偽りの無いまま伝えることに、何の問題も無いはずです。彼女はあなたを信じるはずです。生の気持ちでは、嘘はつけませんから」
 むうっと俺はうなった。
「伝えちゃいけない事が、人間にはあるんだよ!」
「それは分かりますが。……あなたの好意が伝わったのが、そんなにいけない事なのですか。他人に好意を持つことは、我々にとっては、とても良いことだとされています。好意を持ちながら、伝えないのが正しいとは、とても理解できません」
「あのな、好きってのは色々あるんだよ。物を好きって言うのと、美和子ちゃんを好きって言うのとはわけが違うんだ」
「どう違うのです。それに、どちらが伝えても良くて、どちらが伝えてはいけないのです?」
 俺はうっとつまった。
 エイリアン相手に、好意と恋と愛の違いをどう説明すればいいんだろう。ついでに俺の趣味の偏りや、肉欲のことも。
 俺は、まず、奴の知識がどういうものか、聞いとくべきだと思った。
「……まず、お前等は、どうやって子孫をふやすのか、教えてくれ」
「なんの話です?」
「いいから」
「分かりました。固有名詞は発音できないので避けさせてもらいます」
 そう前置きしてから、奴は続けた。
「人間は二つの性から子孫を生み出しますが、我々は三つの性から子孫を生み出します。役割はそれぞれ、”生み出す者”、”生み出される者”、”間を繋ぐ者”と名付けておきましょう。まず、”生み出される者”は時期が来た時、好みの”間を繋ぐ者”を探し、”間を繋ぐ者”に吸収されます」
「??? 喰われるって事か?」
「違います。ですが、”生み出される者”はいなくなってしまいますから、そう考えてもいいでしょう。”間を繋ぐ者”は、その遺伝情報と肉体を養分に使って、核をいくつか作り出します。遺伝情報は”生み出される者”と”間を繋ぐ者”のものですから、二人の子と言っていいでしょう。次にそれを、できる限りの数の”生み出す者”に産み付け、成長させてもらいます。子供は、”生み出す者”に体をもらい、育てられ、やがて子も”生み出す者”となります」
「それじゃ、”生み出される者”はいなくなっちゃうじゃんか」
「核を作った時点で”間を繋ぐ者”は”生み出される者”に変化し始めます。一生に一度の事なので、彼らはとても慎重に相手を選ぶのです」
「一度母になると、二度と子供は産めないってことか」
「母と言う概念は、むしろ”生み出す者”の方が近いと思います」
「待てよ。それじゃ”間を繋ぐ者”がいなくなっちゃうぞ。どういう事だ」
「その通りです。何回か子を産み、その力が衰えてくると、”生み出す者”は核を与えても子を産まなくなります。その時、核を吸収して、それを養分に”間を繋ぐ者”に変化するのです。変化は、肉体にも遺伝子にも起こります。性器はその都度生え変わり、最後には無くなります」
「…………。年を取るに従って、三段階に変化するってのか……」
 しかも、一番年寄りが自分の体を使って、中ぐらいの奴との間に子を作らせ、一番若いのに産ませ、育てさせる……。
 なにより、変化するといっても、同じ個体のことだ。彼らは性が一つしかないと言ってもいいんじゃないか。
 無茶苦茶だ。こんな奴に、どうやって俺の事情を理解させればいい?
「理解できましたか?」
「分かった。二度と聞きたくないから安心してくれ。ところで、お前等の種族では、愛は感じるのか?」
「もちろん。”間を繋ぐ者”が自分自身でいる間、多くの”生み出す者”からの愛を受けます。そうでなければ、誰も核を受け入れ、育ててはくれません」
「”生み出される者”はどうなんだ?」
 奴は初めて躊躇した。
「それは……大事にはされます。彼ら無しでは絶滅してしまいますから。ただ、彼らは、時期がくるまでは誰も愛しません。そのかわり、その時がくれば”間を繋ぐ者”に全てを捧げる愛を誓うのです」
 その時は死ぬ時だろう。
 彼らの愛はあまりにも人間とは違う。俺は「面白い!」と思いながらも少々あきれていた。
「……シギル、怒っておいてなんだが、すまなかった。ただし、お前はこれからは、人間の好意だの愛だのに、余計な手出しはするな。お前の持っている概念は、絶対、人間に理解されるものじゃない。多分、そっちも俺たちの事が理解できないだろう」
「説明させておいて、説明はしてくれないんですか?」
「本を読め。あと、そうだな。美和子ちゃんや俺のしてるようにしてみろ。楽しければ笑う、悲しければ泣く。言いたい事は言葉で伝える。人間は、直接伝え合ったりできないんだから、これは一番大事な所だぞ」
「自信はありませんが、やってみます。好意を伝えるには、どうしたら良いのですか?」
「笑ってごらん」
 奴は顔をぴくぴくひきつらせると、やがてニカッと歯を見せて笑った。非人間的な笑顔だ。
「なんだそりゃ。そんなに強く笑わなくていいんだ。強弱が重要なんだから。普通に伝えるためには、見られる事を意識しながら、一番合った表情をするのがポイントなんだ」
 あーだこーだ言いながら、何度もやり直す内に、その笑顔は見れるようになってきた。
「後は、鏡を見ながらやりな。そういや、山ほど聞いておかなきゃならない事があったんだ」
 こっちへ来いと手招きをしながら、居間へ行こうとすると、奴が呼び止めた。
「なんだ?」
「出て行けというのは、本気ですか」
「……細かい奴だな。腹が立っただけだ。気にするな」
「ありがとう。私は誠司さんが好きです」
 未完成の笑顔は、それでも美和子ちゃんの顔で、かわいかった。

 俺は何も無い所で、滑ってころんだ。初めての事だ


     −8−

 美和子ちゃんはかわいい。

 俺は何度もそう言わされた。
 美和子ちゃんはかわいい。美和子ちゃんはかわいい。
 彼女はそのフレーズが気に入ったらしい。
 美和子ちゃんはかわいい。美和子ちゃんはかわいい。美和子ちゃんはかわいい。
 逆らって、美和子ちゃんはかわくない。と言うと、「うそつき!」と叱って、笑う。やっぱりかわいい。
 表情がころころと変わって、生き生きしている。
 本心を見られたんだから、反論も何も無い。
 はしゃぐ彼女に合わせながらも、俺は、彼女からちょっと離れていようと努めていた。
 シギルのせいで、うかつに彼女に触れなくなったせいだ。
 またあれをやられたら、かなわない。
 だが、彼女は風のように動き回ると、ぴょんとくっついては、さっと離れていく。
「また見えないかなー? ちぇっ」
 まったく油断もすきもない。
 子供っていうのはこんなに目まぐるしいものなんだと始めて知って、俺は心から親の大変さを思いやった。

 美和子ちゃんはかわいい。

 結局シギルが戻ってきたのは、翌日の月曜の昼の事だった。
 という事は、俺は丸一日、美和子ちゃんと一緒にいた事になる。
 取り越し苦労で済んだ事も多い。
 彼女は一人で風呂に入る事ができた。
 むしろ、彼女が長い髪をまとめて上げるのを見て、へえこんな事をするんだと勉強になったぐらいだ。
 俺は、シギルが湯船に髪の毛を浸しても、気にもしなかった。
 替えのパンツを取ってやろうとすると、恥ずかしがって、自分で揃えると風呂場へ駆け込んでいく。
 元々俺がたたんだものなんだから、恥ずかしがることも無いと思うんだが、「エッチ!」と言われると口元がゆるむのを止められなかった。

 美和子ちゃんはかわいい。

 あの後、俺は何度か美和子ちゃんを抱っこした。
 もちろん、いやらしいことはなるべく考えないようにしてだ。
 初めて知ったことだが、子供の抱っこはとても苦しい。
 首に両手を回されると、とてもうれしいが、首が回らなくなる。
 これを避けるには、顔が同じ高さにならないように、上下にずらしてやると良い。
 そうと気付くまで、抱っこしたまま動き回る事もできなかった。
 彼女の体はとても柔らかくて、感触が気持ちいい。
 振り回してきゃあきゃあ言わせて遊びながら、俺はなりゆきで何度かキスをしそうになって、自制するのに苦労した。
 しっかり俺の体に両足を巻きつけられると、ズボンの中がきつくなる。
 俺の頭は、幸せな気分と、罪の意識で、くらくらしていた。

 美和子ちゃんはかわいい。

 10時頃には、美和子ちゃんを寝かせることにした。
 今まで一緒のベッドに寝ていたわけだが、これからはそうもいかない。
 ふとんはなんとかなるが、同じ部屋に敷くかどうかで迷った俺は、そうっと彼女に聞いてみた。
「このベッドは俺のだけど、これからはみいちゃんのにするから。俺は、下にふとんを敷きたいんだけど、いい?それとも、別々の部屋のがいい?」
「うん、べつにいいよ」
 気の無い様子で、彼女は答えた。
 もっとも彼女は、俺が何を心配してるのか、分かっちゃいないのだから、こんなものだろう。
 元々俺の家なんだし、気を使ったのかもしれない。
 何かあったら、いつでも呼べと言って、明りを消すと、俺は居間へ向かう。
 俺がこんな時間に眠れるわけがない。
 ようやく一人になった俺は、パソコンの電源を入れながら、明日からの事を考えていた。
 小学生の朝は早い。たぶん当分は寝不足になるだろう。
 いつもより早めに寝室に入ると、丸まった背中から、すやすやという寝息が流れてきた。

 美和子ちゃんはかわいい。

 眠くてしょうがない俺が、ソファでぼーっとしていると、歯磨きの終わった美和子ちゃんがぱたぱた駆けてきた。
 俺の肩をぽんぽん叩いて、「元気?」と笑う。
 ひょいと肩を抱いても、もう彼女は気にしない。
 頭を撫でてやると、ごく普通な感じで、もたれかかってくる。
 膝の上に乗せると、俺の腿に、彼女のお尻の骨が当たって、痛い。
「抱っこ?」と言って、胸に顔を当てる彼女を抱き上げると、彼女の息がふうっとかかった。
 思わずきゅっと抱きしめると、そのままくっつけ合った頬に唇で触れてみる。
 彼女は気にしなかった。
 努力で体を引き離すと、ぴょんと立ち上がって、カラ元気で彼女に言った。
「近所に公園があるんだ。買い物ついでに散歩に行こう!」
「うん!」

 美和子ちゃんはかわいい。アレ? でも何かおかしくないか?

 うかれた頭に、俺は初めて危険信号を感じ始めていた。


     −9−

 俺の仕事の事は話してあったが、俺が会社に出掛けてる間の事を話すのは、とても骨が折れた。
 そもそも美和子ちゃんは、俺と同様に巻き込まれただけで、ここにいなきゃならない理由など何も無いんだから、当たり前だ。
 ただ家にじっといてくれと言っても、納得できるわけも無い。
 色々なお菓子をちょっとずつ口に入れながら、彼女は黙って聞いていた。お菓子の味の方が、よっぽど気になるみたいだ。
「ゲームの会社って、おもちゃがあるの? いつもあそべるんでしょ?」
 ただでさえ世間の誤解はあるが、子供の目からは、さらにそう見えるのだろう。作ってるほうは、楽しい事ばかりじゃない。むしろ、無機的でややこしい作業ばかりだ。
 しかし、誤解を解くよりも、もっと大事な事がある。
「そんなことないよ。それより、約束してくれる?」
「やだ」
「たのむよ」
「うん。なにしてればいいの?」
「遊んでていいよ。テレビも好きに見ていい。でも、外に出ないで待ってて欲しいんだ」
 ゲームのたぐいは一杯ある。部屋を散らかされるのは、覚悟の上だ。
「ごはんは?」
「みいちゃんは、カップ麺は作れる?」
「うん」
「んじゃ、それだ。6時になったら食べるんだ。お湯は熱いから気をつけるんだよ」
 そう言いながら、残りのお菓子を片付けようとすると、彼女はぷうとふくれた。
「だーめ。もうお昼だから。先にご飯食べよう」
「ぶー」
 なんとか取り返そうとする手をさっとかわして、棚にしまうと、にっこり笑いかける。彼女は、不満そうな顔でふくれている。
 とたんに彼女が小さなくしゃみをした。「へくし!」
 押さえた手に、チョコスナックが一個つままれていた。俺は「あー」と言って、取り上げようと一歩踏み出した。
 その時、彼女の体がふるえた。
 立ち止まった俺の前で、美和子ちゃんは、まず俺を見て、指でつまんだお菓子を見つめた。
 無表情にそれを口に入れると、ゆっくりと噛んで、飲み込む。
「甘い」
 つぶやいた彼女に、俺は奴が帰ってきたのを知った。
 とたんにそれまでの事が俺の頭の中を逆流して、怒りとなって爆発した。



 シギルが帰ってくるなら、美和子ちゃんに家にいてくれなんて言う必要もなかった。まあ、彼女が留守番する時が来るかもしれないから、無駄とも言えないが。
 居間に着いた俺は、パソコンの前の椅子に座ると、奴を隣に座らせた。
「これは?」
「コンピュータだ。使い方は今晩教える」
「分かりました」
「お前、美和子ちゃんに何をした」
「何の事です?誠司さんに言われた通り、私とあなたを怖がらないようにしましたが」
「それだけじゃないだろ。まず、彼女の体に何したんだ?」
「ああ、力が大きくなった事ですね。あれは防御本能から、入り込んだ個体の強化をした為です」
「どうやってやるんだ?」
「この体の中を、私の体を細く網目状に伸ばして覆います。全てを散らばらせると、私自身の維持が難しいので、皮膚の下を全体に覆うだけです。これで、打撲や傷などに強くなりますし、本体よりも強い力を出せるようになります」
 彼女は手を上げると、小さな手を開いた。
 見ていると、手のひらの真ん中あたりから、極細の綿毛のようなものがもやもやと出てきて、すぐに引っ込んだ。
「それを俺にまで入れたのか。よもや、俺を乗っ取るつもりだったんじゃないだろうな?」
「ごめんなさい。あなたを怒らせるつもりはありませんでした。これは私の神経のようなものです。あなたの意識を奪う能力はありません。お互いの気持ちを伝え合うためのものです。それにあの時は、あなたの気持ちをこちらに伝えただけで、あなたに影響は与えてません」
「なんで美和子ちゃんに、それを見せた」
「手違いです。脳に刺激を与えながらやったので、彼女にそのまま伝わっていました。知りたかったのは、私の方です」
「俺の……、何を?」
 奴は黙った。こんな事は初めてだ。
「……すいません。今は言いたくありません」
「わかった。もうやめろよ」
「はい。残念です」
「? それでは、次だ。お前は、お前と俺を怖がらないようにしたと言ったが、他に何かしたろう」
「たとえば?」
「彼女の慣れ方は異常だ。まだ知り合って一日も経ってないのに、俺に両親並みにまつわりついてくる。俺は、そんなにうぬぼれが大きい方じゃない。お前が何かしたんだ」
「普通ではないのですか?」
「そんなことはありえない。彼女がもし人懐っこい性格だとしても、両親、特に母親がいなくて不安にならない子供はいない。誘拐というものを具体的に知らなくても、俺の教えた事だけで全て信じて、言う通りにするなんてありえない」
「なるほど」
「お前、彼女の記憶をいじったのか?」
「いえ、記憶というものは、書き直す事は大変難しいので、普通やりません。消す事は比較的に簡単にできますが、脳を傷付けます。私は記憶はいじっていません」
「じゃ、何をしたんだ」
「分かりました。操作と言っても、本人の心を変えさせるものではありません。私のする操作は、信号の増幅と、妨害だけで行われます」
 前置きして、奴は続けた。
「まず、恐怖の信号が発生する部分をブロックして、隔離しました。次に、安心させるために、優しい情動の発生を促して、増幅します。最後に、現状に積極的であるように、興味を感じる部分を刺激し続けました。これは、誠司さんと関連するものの記憶が呼ばれる度に、強化されます」
「ブロックって、関連した部分もか?」
「そうです。当然、それを生み出す、家族の記憶が呼び出されるのも、抑えられていたはずです」
「ふーむ」
「彼女が信じたくない事を、私が信じさせる訳にはいきません。あなたに対する疑いは、当然ありました。あなたを信用させたのは、あなたの態度と、素直な事情の説明にあったと思われます。……それと、怒るかもしれませんが、いいですか?」
「言ってみろ」
「説明した通りに刺激すると、ある方向へ誘導される事になります。その結果、予定外の事ですが、体にもホルモンの分泌が促されていました。あなたの言った事は、その結果に過ぎないかもしれません」
 俺はいやな気分になったが、聞かない訳にもいかない。
「ある方向ってのは?」
「あなたに本能的な好意を持つ事です」
 とっさに腕を振り上げたが、目の前にいるのは美和子ちゃんで、言い出したのは俺だと思い出した。
 天井をにらんで、俺は唇を噛み締めた。

 俺にはどうしたらいいか、全く分からなかった。初めて、俺は自分を憎んだ。


     −10−

 うろうろ歩き回る俺を、シギルは無表情な顔で追っている。
「ごめんなさい。言われた以外の事をやったのはまずかったですか? あの時、赤の他人と言っていた、あなたと彼女の関係を、短時間で成立させるためにやったのですが」
「まずい! いや、うーん……」
 奴がやった事は、なるほど、必要な事だけだ。うまくいかなかった訳でもない。
「やめる事もできますが、どうしますか?」
 しばらく歩き続けてから、苦い顔で俺は言った。
「このままにしておいてくれ」
「あなたは、何を悩んでいたのですか? 美和子さんは女性で、誠司さんは男性なのでしょう。予定外と言っても、私から見て、何も問題は無いように思いますが」
 そうか、こいつは生物的な事までしか理解して無い。年齢の問題があるのを、全く気付いていないのだ。考えてみれば当然かもしれない。
「その話はまた、今晩、話をしよう。それより、聞いておかなきゃならん事がある」
 こんな時は、気分を変えるに限る。俺は、昼飯を作ろうと流しへ向かいながら、言った。
「これからどういう周期で、お前等は交代するんだ?」
「疲れにもよりますが、たぶん二日間私で、一日間美和子さんが出ている事になります」
「もっと伸ばせないか?」
「どっちをです」
「お前の方を」
 正直言って、このままでは、何も起こらないで済む自信がなかった。
「ありがとう。できますが、あまりうまくいかないでしょう。私の一日は、大体ここの三日でできています」
 俺は、なぜ礼を言われたか、分からなかった。とにかく、これで先が見えずに、驚かされる事は無くなったわけだ。
「分かった。もう一つ。お前はどうやら、美和子ちゃんが起きてる時でも俺たちの話を聞いてるみたいだが、美和子ちゃんはどうなんだ?」
「美和子さんは、聞いていません。彼女が起きた状態で、私が体を操るのは不可能なので、一度完全に睡眠状態にしてから、私が操ります。それから、睡眠中、私が聞いていられるのは、とぎれとぎれに数秒だけです。ずっと聞いているわけではありません」
 なるほど、これで少しは安心した。その時、奴がたずねた。
「一つ、聞いていいですか?」
「うん?」
「どちらが違うのかは分かりませんが、誠司さんは、私と美和子さんと話す時、まるで違う話し方をします。これは、どうしてですか?」
 意表を突かれて、俺は絶句した。そう言えばそうだ。
 色々考えているうちに、料理はできた。冷やしたそばを真ん中に置いて、俺は「食うぞ」と椅子を引いた。
 奴はじっと俺を見たまま、自分の席についた。
「お前は、男か? 女か?」とそばを吸い込みながら聞く。
「前に話したはずです。どっちでもありません」
「美和子ちゃんは、女の子だ。それが理由だ」
 奴は少しの間、じっと考えているようだったが、やがて、小さな口で、ツルツルそばを吸い込み始めた。
 変な気分だ。奴の事を、考え直す必要がありそうだ。
 汁が飛んで頬に付いたのを拭いてやると、奴はうまくない笑顔で礼を言った。
 そんな事をしながら、俺達は黙って食事を続けた。

 奴が来て以来初めての、声の無い二人の食事だった。


     −11−

 不安が次から次へと湧いてくる。俺は自分の部屋へ駆け込んだ。
 奴がいない。部屋はどこも真っ暗なままだ。
 明りを点けて寝室を覗いたが、美和子ちゃんの姿は無かった。点けっぱなしのテレビと、様々な本が平積みになっているだけだ。
 順に明りを点けていきながら、各部屋を探っていくと、突然、暗がりに奴が立っているのを見付けて、ぎょっとなった。
 洗面台に立って、向こうを向いている。何をしているかは、こちらからは分からない。
「……ただいま。お前、こんな真っ暗な所で、何やってるんだ?」
 俺がパチンと明りを点けると、シギルは眩しそうに目をつぶりながら、こちらを振り返った。
 買ってきたスカートは、彼女に良く似合っている。やっぱりズボンよりこっちの方がいい。ソックスが片方ずり落ちているが、奴にとってはどうでもいい事なのだろう。
「大丈夫、私には見えます。表情の練習をしていました」
 俺はずっこけた。何も、真っ暗な中で鏡を見ながら、表情を作る練習をしなくてもいいだろうに。
 鬼気迫るその様子を想像して、俺はちょっと怖くなった。
「そうかそうか。てことは、勉強は終わったんだな」
 奴は、今日一日この辺りの地理や、この世界の事を勉強していたはずだ。
「はい」
「飯はちゃんと食ったか?」
「はい。言われた通りに、食べました。あの……」
 ととと、と俺のほうへ歩み寄ると、目の前に立った。
「おかえりなさい」
 上等の笑顔だったが、子供っぽさは無い。昼に教えてやった人間のあいさつだが、さっそく効果があった。
「惜しいな。もうちょっと」
 俺は笑って答えた。
「なにがいけませんか」
「笑顔の方だよ」
「そうですか」
「今晩は、ようやくじっくりお前から話を聞けるな。ま、それはともかく風呂に入ろう」
「風呂? なぜです」
「俺が入りたいからに決まってんだろう。仕事で疲れて、汚れてるんだ」
「あなたはもう知ってるでしょうが、私は一人で風呂に入れます」
「そうだ。そういや何で黙ってたんだ?」
「あの時は、体の修復に力を割いていました。わざわざ断る理由はありません。今は違います」
「よもや恥ずかしいってんじゃ、ないだろ?」
「恥ずかしいという概念は、私たちにはありません。単に、あなたの手をわずらわせなくてもいいと、思っただけです」
「ついでに、話ができるだろ。俺は明日も会社なんだから、合理的にやるべきだと思うが、どうだ?」

 湯を張っていると、奴はそっと風呂場に入って来て、尋ねてきた。
「不思議に思ってる事があるのですが、いいですか?」
 うなずいて、先を促す。
「あなたは、私に会った時、最初はひどく恐怖していました。それなのに、すぐに私の存在を理解して、受け入れてくれました。今まで、私の事を聞きだすのを急がず、準備が整うまで、ここにかくまってくれています」
「その通り。で?」
「なぜです?……正体の分からない物に対する行動としては、理解できません。私は、あなたとの会話から、あなたはかなり頭がいいと思っています。ですから、紳士的にやるにせよ、まず私の事を知りたがるはずです。何か、私を利用して利益を得ようというつもりでも、あるのですか? それとも、人間は皆、あなたのようなのですか?」
 俺は笑った。核心を突いた質問だが、説明しても、理解はしても分かってもらえるとは思えない。
「利益は当然あったよ。お前の事に興味はあったが、美和子ちゃんと仲良くなれた。お前も、俺の気持ちを見てたんだろう」
「美和子さんと仲良くするのが、あなたの目的なのですか? さっぱりわかりません。それに、取った行動の理由とは、とても言えません」
「それはな……、SFっていう、架空の話が小説や映画になるジャンルが、ここにはあってな。俺は、それが好きなんだよ。そのSFにはな、体を乗っ取る怪物とか、宇宙から地球へ侵略にやってくる宇宙人の話とかが、一杯出てくるんだ」
「それに、私たちの事が書いてあるんですか?」
「違う違う。架空の話を想像で書くんだ。本当の話じゃない。娯楽だよ。嘘の話を本当の話のように書くんだ。色々なものを俺は読んでるんで、お前を見た時、それが現実ではあっても、そんなに意外に思わなかった訳だ。想像もついたからな」
「なるほど」
「SFの中の話のような事が起こって、俺は面白がってるってわけだ。面倒はごめんだが、人間に危害を加えない限り、手伝ってやる。いやむしろ、こっちから参加させてくれ」
 納得したのかどうか、奴は黙った。

 正直、このバカな状況は、夢なんじゃないかと疑う事が、しょっちゅうある。
 しかし、彼女の体はリアルだ。夢じゃない。現実だ。抱きしめれば、柔らかくて、いい匂いがする。
 動かしてるのが美和子ちゃんじゃなくて、シギルだというのも、口を閉じていれば見分けなどつかない。本当にこの子は奴か?俺はだまされているんじゃないか?
 湯を止めた俺は、そうっと美和子ちゃんに触れてみる。反応は無い。やっぱり奴だ。しかし?
 思い切ってよいしょっと持ち上げる。そのまま胸にかかえると、彼女の手が俺の首に回った。
 はっとした時、彼女は言った。
「これでいいのでしょうか?」
 そっと降ろすと、頭を撫でながら、着替えを持ってくるように言った。どんな顔をしているか、見られたくは無かった。
 奴が人間っぽくなっていくのは、なにかひどくまずいんじゃないかと、俺は思い始めていた。

 今日、初めて奴に笑いかけてやった事に、俺は気付いていなかった。


     −12−

 野々村誠司が大原美和子の体を洗いながら、彼女の口から事情のあらましを聞き始めた頃、もよりの駅の階段から、一人の女の子が降りてきた。
 夜も遅いこの時間に不釣合いな子供の姿は、それでも闇にまぎれて、目立たなかった。
 大人たちに、好奇の目を向けられる事も無い。彼女は年に似合わず、凛と立って、隙が無かった。
 中学1年程度だろう。制服に包まれたその体はほっそりと華奢で、ショートカットの髪の下では、無表情な瞳が辺りを見渡していた。
 背中にしょわれたリュックは、何か重い物でも入っているのか、不自然にぎゅっと下に垂れ下がって、しわが寄っていた。
「角度はこちら。でも道路は危ないから、横断歩道しか通っちゃいけない」
 見回すと、左手の方に信号がある。無数に林立するビルの窓に灯る明りを眺めて、彼女はため息をついた。
 この中から、たった一軒を探すのは、骨が折れるだろう。
 とにかく急いで彼を探さなければならない。ボートも行方不明のままだったが、このままでは、彼が何をするか分からない。
 事件になってからでは、人間の注目をそらすのは、簡単な事ではない。
 こんな所で未知の異文明に勝手に接触したなどと上司に知れたら、人間に殺されなくても、処刑される可能性は高かった。
 彼はふと、内部で笑みを浮かべた。
 帰ってからの事を心配するのは意味が無い。帰れる可能性自体が、高いとは言えなかった。
 ここの科学技術のサポートでは、ほとんど期待はできない。船が一度壊れてしまえば、修理は不可能だろう。
 事態は絶望的だが、ここの生命体は、彼らの生存に最適な肉体を持っていたのが、唯一の救いだ。
 この体は素晴らしい。外力に弱い事を除けば、これほど体内循環システムが彼らに合う肉体は無かった。
 真紀を説得しきれていなかったが、ようやく彼の存在は認めてくれた。
 後は、さっさと出て行けるように、できる事をやっておこう。

   俺は、真っ赤な海に浮かんで、揉まれていた。
   さまざまな俺の記憶が、はじけては吸い込まれていく。
  『やめろ!』
   奴の情熱的な愛情が、ざぶりと波のように盛り上がると、オレンジ色に光って、はじける。
   暖かいしぶきが俺を包んで、俺は若い頃の情熱的な恋を感じ、強い衝動に溺れかかった。
  『なんだこれは! やめろ! シギル!』
   肉体は無かった。 心の中で叫んでも、言葉は通じない。
   俺の抵抗は、何の手ごたえも感じられなかった。
   一筋の青い流れが通り過ぎると、奴の寂しさがかすかに感じられる。
   ちらりと俺のものでない記憶がかすめていった。
   その時、大きな熱狂のうねりが俺に叩きつけられた。
   どっと押し寄せる異形の記憶に、俺の体は散り散りになる。
   理解不能のものがほとんどだが、見える記憶のほとんどは、ブルーに彩られていた。
   絡み合い、溶け合いながら、俺の怒りはいつしか、なだめられ、落ち着いていく。
   これからの不安だけが、針のように残っていた。

   はるかかなたには、美和子ちゃんの存在が感じられる。
   静かに眠るその姿に、俺は奴の内部にいるのを感じていた。
   薄く薄く広がって、今では奴の全てを覆い尽くしている。
   何もかもが俺の近くにある。 奴は全てを俺に解放していた。
  『愛しています……a』
   その気持ちが、何度も目の前を流れていく。
   それには、人間なら見られる、ためらいとか迷いなどの影が、全く無かった。
   ここでは嘘や作為すら、隠せない。
   純粋なそれは、俺に、子供の持つ真っ直ぐな心を、思い浮かばせた。
   うねうねと動く流れの中で、やがてそれは、美和子ちゃんの肉体を形作っていく。
   かわいい、全裸の美和子ちゃんだ。
   それを見た俺の心から優しい気持ちが流れ出すと、あっという間に美和子ちゃんはそれを吸い取っていく。
   好意も、愛情も、肉欲も、全てがごっちゃになったそれを、彼女はうれしそうに味わっている。
   同じように俺の肉体を形作ると、彼女が覆いかぶさってきた。
   彼女は、ためらいがちにキスをしてから、体を、俺の体に優しく這わせてくる。
   触れ合った皮膚からは、それだけで強烈な快感があふれて、すぐに俺の体が勃起していくのが感じられた。
   彼女の体からも、俺の体からも、さまざまな色の気持ちが流れ出し、溶け合っていく。

   彼女は大胆だった。
   俺のためらいなど気にもせず、俺が望む全ての事を、この夢の様な場所で、かなえていった。
   なにもかも忘れて、俺は興奮と、快楽に溺れていた。

 カギを破壊するのは簡単だった。問題は、ここに彼がいるかだ。間違いでは済まないだろう。
 そっと重い扉の内側に入ると、進藤真紀は耳を澄ませた。
 明りは点いている。廊下の向こうに見えるリビングには、誰もいない。その時、彼女の耳に、こもったザバッという水の音が聞こえた。
 洗面所の脇で、風呂場のドアから明りがもれていた。
 彼女は困った。確認するためには、風呂場に入るか、出てくるまで待つしかない。
 そうっと奥へ行ったが、他の部屋にも誰もいない。
 再び風呂場のドアの前に立った彼女は、やがてついに決心すると、勢いよくスライドドアを引き開けた。
 彼女の目に、不思議な光景が飛び込んできた。
 風呂桶の、縁から壁までの50cmほどのスペース、飾りタイルの、腰掛にも使える空間に、大人の男がだらしなく寝そべって
いた。
 肩から頭を壁にもたれかけ、足は大胆に開かれて、片足は風呂桶の湯に浸っている。
 目を閉じて、真っ赤な顔で、激しく息をしていた。その体の真ん中に、小さな女の子が背中を向けて乗ったまま、体を揺らして何かをしている。
 真紀よりもずっと小さい。8、9歳にしか見えない。
 真紀は、野々村誠司がシギルと呼んだ、彼の本名を叫んだが、二人からは、何の反応も返ってこなかった。何も聞こえてないらしい。
 走り寄ると、少女の肩を揺さぶりながら覗き込んだ。
 小さな手にしっかりと握られた男性器は、真紀の知識に無い大きさで、天を向いて反り返っていた。
 焦点を結んでいない目を彼の方に向けたまま、少女はただ手を動かし続けている。右手がいやらしく上下に動くたびに、その先端から白い液体が飛び出して、彼女を汚していた。
 もう片方の左の手の平は、男の胸の真ん中に、ぴったりと張り付けられている。
 どちらが彼なのかは、これで分かった。遅かったが、黙って見ている訳にもいかない。
 真紀はため息をつきながら、リュックを降ろした。
 辺りには、二人のはあはあ言う息づかいと、じゅっじゅっという粘液質の音だけが響いている。人間はこういう事をするんだ、と真紀自身も、興奮しながら感心していた。
 真紀の、セックスに関する知識は大した事ない。観察していると、少女は顔を近づけ、ソフトクリームの様に男性器の先端をちろりと舐めた。男の顔が歪んで、彼女の顔にしぶきが飛ぶ。
 真紀は、夢中になって右手を動かしている少女の足の間から、一筋の血が流れているのに気が付いた。
 処女膜というのは、真紀の知識にあった。これくらいなら、問題ないだろう。
 リュックから細い棒状の金属を取り出すと、少女の背中に当てながら、もう片方の手で男に触れた。棒から小さな音がして、少女の動きが止まる。
 薬が効くまでに、内部の彼を離しておかないといけない。手から男に侵入しながら、内部で彼を追い立てていくと、少女の左手は、やがて男の胸からずるりとはずれた。
 二人とも、完全に失神している。
 二人に浮かんでいる幸せそうな表情を、真紀は、内部で苦笑いを浮かべながら、無表情に眺めていた。
 男の体の内部での戦いで、真紀の中の者は多くの手を失っている。今なら男の記憶を探って、真紀の欲しい情報を探すこともできたが、それは最後の手段として取っておく事にした。
 どうせ、男の方はすぐに目覚める。問題はそれからだ。

 俺が重いまぶたを開いた時、俺の家の風呂場に、見慣れない女の子が立っているのに気付いた。
 制服を着た、中学生くらいの女の子だ。
 ひどく疲れて、何も頭に浮かばない。どうしてだろう。
 起きようとして、俺は足元に横たわる少女に気が付き、目をやった。
「美和子ちゃん!」
 彼女は白い粘液にまみれたまま、床に倒れていた。片方の太股には、赤い筋が見える。
 俺は逆上して、叫んだ。
「お前! 何をした!!」

 俺は初めて、いわれの無い理由で女の子を罵倒したのだが、その時俺は、全くその事に気付いていなかった。



続く.