「ダブル(その一)」 Aristillus
−1−
違う生物とコミュニケーションを取るという事は、どういう事だろう。もし、同じ知性を持ち合わせるならば、全てうまくいくだろうか。俺はそうは思わない。
もし虫が人間と同じ知性を持っていても、虫の価値観を人間は笑って見下すだろうし、向こうもそうなるに違いない。虫は、絶望した時、虫の神に祈る事があっても、人の神に救われたいとは思いもしないだろう。
だがもしも、その二つを結びつける方法があるとしたら……。
聞きなれないヒュウッという音に振り返ると、樹々の間に白い光がフラッシュするのが、俺の目に写った。
「なんだぁ!?」
公園内の林の中に一瞬で消えた光の方を立ち止まって見つめていると、街灯の明りに浮かんだ白い煙と、何かが燃えるようなブスブスという音がかすかに聞こえてきた。
深夜というより早朝が近いこの時間、広めの公園内にも、その脇の飾りタイルで舗装された道をブラブラ歩いていた俺の周りにも、人の気配はない。公園の向かいの家並みにも、明りの灯った窓は無かった。
何かが落ちたような気がしたけど、落下音はしなかった。不思議に思いながら、しばらく立ち止まっていた俺は、ちょっと見てみるつもりで、林の方に戻ってみた。
近くに街灯があっても、林の中は真っ暗だ。火はすぐに消えたらしく、煙の強い臭いしか残っていない。
10m程踏み込むと、辺りはほとんど何も見えなくなった。
気は強い方だと思うが、怖くない訳でもない。やめようかと思って中腰で振り返ろうとした時、とんでもないものが俺の目に飛び込んできた。
手足を投げ出して、うつぶせになっている子供。
悲鳴を頭の「ひっ!」だけでなんとか噛み殺し、頭の中を「殺人!」とか「誘拐!」とか「強姦!?」とかの単語がぐるぐる廻る中、息をつめて辺りを探ったが、何の気配も無い。
よく見ると、白っぽいまだらのワンピースが見えた。どうやら女の子らしい。
「お、おい!」と我ながら情けない声を掛けながら、恐る恐る近づいた。
あちこち服が破れている。白いワンピースらしいが、まだらに見えたのは、ケガをしているのか、ドス黒い血の跡があるからだ。
警察に連絡しよう!と俺が決心したその時、子供の頭が横に動いた。
「生きてるのか!」
思わず触れようと近づいて、手を伸ばした時、俺は初めてそれに気付いた。
何か青白い粘液のようなものが、女の子の肩口にべったりと付いている。闇の中で、それはぬるぬると動いていた。ずるっ、ずるっ、と縮んでは伸び、体の下から上、背中の方へと昇っていく。
これは生き物だ!
コンビニの袋が俺の手から落ちる、ガサっという音がした。
恐怖に硬直した俺の前で、それは少女の首の付け根辺りに集まると、するりと姿を消していった。
目を離せずに見ると、その辺りに大きな傷がある。あれは、傷から少女の中に消えたのだ!
嫌悪感にはじかれたように立ち上がると、「わああっ!」と思わず叫んだ。
恐怖に目を離せないまま、じりじりと下がろうとした時、すうっとワンピースの少女が身を起こした。
「しずかぁにして」
変な発音だが幼い声と共に、小学校低学年くらいの顔がこちらを向いて、俺ははっとなった。
日本人らしくないはっきりした二重の目は、垂れた眉と相まって、優しそうな印象がある。小さな鼻は少し上を向いて、小さな口を縁取るうすいピンクの唇は、今は息をついで少し開いていた。とても子供っぽい、かわいい顔だ。
しかし今、その半顔は血に染まって、なのにそこには、何の表情も浮かんではいない。
少女はふらっと立ち上がると、よたよたと近寄って、小さな手を伸ばすと俺のズボンをつかんだ。
そこまでが限界だった。俺は暗い林の中、さらに深い暗闇の中に落ちていった。
気絶というものを、俺は初めて経験したのだった。
−2−
目を開くと、俺は天国に来たのかと思った。
かわいらしい女の子が覗き込んでいる。長い髪の先が、首や頬をなでて、くすぐったかった。さらに向こうには、樹木の先端が風に揺れている。同時に感じた強い土の匂いに、俺は思い出したくないことを思い出した。
がばっと起きると、さっきと同じ場所に倒れていたのが分かった。腕時計を見ると、5時を回った所だ。もう辺りは明るくなり始めている。
恐る恐る少女を見ると、彼女はまだ、しゃがんだままじっとこちらを見ていた。肌から血の跡はさっぱり無くなっていたが、服はあちこち裂けたままだ。白いワンピースに、肩から腹にかけて、赤黒い血の跡もあった。
「あの……君は誰だい?」
情けない声が口から出て、死にたくなった。
しかし、こんな時はしょうがないだろう、と自分をなぐさめて、ぐっと腹に力を込める。
彼女は相変わらず無表情に、身動きもせず俺を見ている。
「この子は、大原美和子という。私たちは、ヒトにしられると良くないので、わたしが大原美和子ということにしてある。でも、あなたにしられちゃった」
変なしゃべり方に、俺は先程の光景が浮かんできた。山ほど聞きたいことがあったが、うまく考えがまとまらない。
「俺が見た、あの変なのが君なのかい?」
こくりと小さな頭がうなずくと、もどかしそうに話し出した。
「今はそう。それよりここからにげないといけない。ヒトがみんな、起きてくるから」
「逃げる? どこへ?」
「わからない。かくれるばしょ」
「それよりケガはどうしたんだ。そうだ、死んでるみたいだったぞ!?」
「生きてる。美和子は、今は、ねむってるの。おこせばはなしもできるよ。でも、しばらくはわたしがおきてないと、ケガが直らないから」
そう言うと、髪をかきあげながら、うなじを見せるために振り向いた。
覗き込むと、さっき大きな傷のあった所には、中からきゅっと引っ張った様な、ひきつれがあるだけだった。
俺が恐る恐る手首を掴んで、脈を確かめると、力強い脈が感じられた。始めてほっとすると、俺は眉を寄せた。
「本当だろうな? 人間に取り付いて操縦する、エイリアンだかなんだか知らんが、許さんぞ」
「えいりあん?」
「お前が俺たちの敵ではないと、証明できるのか?」
「しょうめい?」
しばらく考えてから彼女は言った。
「えいりあんとかしょうめいってことばは、美和子のなかにない。だから、こたえられない。ことばが見つからない。でも、ヒトは私たちのてきではない」
なるほど、言葉は取り付いた相手から学習するらしい。子供相手のつもりで話せばいいのか。
「お前を信じられるわけを、言ってみろってことだ」
「私たちは、ここでは生きられない。ながいこと外に出るとしんでしまう。いきたいけど、どうぐがみつからない。それだけ」
「行くって、どこへ?」
そう聞いた時、すぐそば、公園の歩道に足音が聞こえた。
誰か早朝の散歩だろう。はっと見つめあった俺の目に、黒い瞳が写った。こんな所を人に見られたら、俺が捕まってしまう。言い訳しようにも、知ってることを話したらアホと思われるだけだ。それに強烈な好奇心もあった。
軟弱者と言わば言え。俺は決心した。
「お前の家はどこか、分かるか?」
「美和子のいえは、とおい所にある。わたしのいえは、もっととおく」
「……しょうがない。俺の家に行こう。だがな、俺にとりつくんじゃないぞ」
「わかりました」
引っ越してからまだ間が無いとはいえ、俺は初めて家族以外の女性を家に招いたのだった。
−3−
正直にいうと、オタク趣味な所が俺には多分にある。
そうでもなければ、29歳にもなって独身で、現在は浮いた話も無い理由を説明できないだろう。もちろん、仕事が変則的に忙しいという事もある。なんとなくそれを言い訳にしながら、結婚にさしたる興味も持てず、気楽な一人暮らしを続けてきた。もやもやと妄想する事があっても、それ以上にはいかない。ようするに無害な趣味人に過ぎなかった。
そういう理由もあったのだと思う。
マンションの重い扉を開けて中に入ると、ずらっと3台並んだパソコンが占領する居間を抜けて、キッチンに入った。
脇のソファに彼女を座らせて、自分は椅子に座る。すると、さしあたってやらねばならない事が、どっと頭の中を駆け巡り、俺は思わず頭を抱えた。
「服をなんとかしなきゃなあ、部屋のことも、布団のこともあるし……」
そうこうしていると、きょろきょろと辺りを見回していた彼女は、やがて「水をのんでいいですか?」と聞いてきた。
どうぞ、とコンビニの袋からジュースを出すと、あっという間に飲み干して、さらに水をと言う。不審に思いながら水道を指差すと、蛇口からコップで何杯も、水をがぶがぶ飲み出した。
あっけにとられた俺が見とれていると、ようやくコップを置いた彼女が、こちらを向いた。
聞きたげな俺を見て、彼女は話し出した。
「血がいっぱい出たので、しばらく元どおり直るまでじかんがかかります」
見た目はちっちゃな女の子にしか見えないが、やっぱり変だ。やはり、こいつは人間ではない。
どっと疲れた俺は、色々聞こうという気が失せてしまった。
「……薬ならあるけど、ケガはどうなんだ?」
「しばらくじかんがかかるけど、だいじょうぶ、私がなおせる。ねむってもいいですか?」
俺はどうしたか。間抜けな話だが、俺と少女は、そのまま昼近くまで眠ってしまった。
さいわい彼女は、特に興味も警戒心も持たず、そのまま俺のベッドの片隅で静かに横になると、あっという間に寝入ってしまった。
俺がそうっと彼女の体を探ってみたら、あちこちにひどいケガらしい跡があった。
しかし今では、そこに傷のかわりに例のひきつれがあるだけだ。彼女は大丈夫と言っていたが、俺は何もしないのが許せず、気休めだと思いながらも、腫れが目立つ所に湿布を貼ってやった。
妙に興奮しかけていた俺の脳裏に、その時、あの光景が浮かんだ。
人形のように横たわる少女に入り込んだ、あの生き物…。
服をそっと戻すと、俺はそのまま、半ば逃げるように睡眠に落ち込んでいった。
頭のどこかでは、面白い事になったというワクワクする思いが、駆けめぐっていた。
元々明け方から昼が、俺の睡眠時間帯だったという事もある。会社は昼過ぎからだった。
起きるとやる事が、一杯あった。まず、まだ眠っている少女の様子を確かめてから、買い物にダッシュで向かった。
あの格好では、彼女を外に出す訳にはいかない。他のものは、彼女を連れて一緒に買いにいけばいいが、今は、とにかく外に出れるように、子供服が上下必要だ。
初めての体験に脂汗を流しながらも、俺はなんとか長袖Tシャツとジーンズを手に入れて、ダッシュで部屋に戻った。
しかし、着替えさせるために無理矢理起こすと、彼女の様子がおかしい。
「あなた、だれ?」
「へ?」
そういえば名乗っていないが、それにしても反応がおかしい。顔におびえたような表情が浮かんでいる。
それはまさに、年相応の物腰をした、小学生の女の子だった。
「もしかして、美和子ちゃん?」
うなずく彼女に、内心あわてながらも、俺は精一杯の笑顔を浮かべた。
職業柄、子供と会話する機会が無いわけではないが、その時話しかけるのは、こんなかわいげのある子供じゃない。
「俺は野々村誠司っていうんだ。ここは俺の家だよ」
いかん、誘拐と勘違いされる、どうしようと考えを巡らせていると、きょろきょろしていた彼女は、ことんと首を落とした。
再び顔を上げた時には、無表情な顔に戻っていた。
「ゆだんしていました。私はまだしばらくねむるひつようがあります。おこさないで下さい」
「……よかった。今はそっちが出てくれた方が助かる。ああ、名乗ってなかったな、俺は……」
「ののむらせいじ。美和子の中にあった」
「そうか、分かるんだったな。俺のことは誠司と呼んでくれ。そういえばお前の名は?」
「大原美和子」
「いや違う。この子じゃなくて、中のお前の名前だよ」
「私の名前は、この口ではうまくしゃべれない」
それでも言ってみろというと、少女の口から高速回転したテープの音のようなものが聞こえた。
「ゆっくりとできないか?」
「ゆっくりすると、すごくじかんがかかる」
「…わかった。じゃあ、頭の4音だけ、ゆっくりと言ってくれ」
「シ・ギ・ル・イ」
疑っていた訳でもないが、ちょっと腰が引けた。
「…じゃあ、お前のことはシギルと呼ぶことにする。他に聞いている人がいる時は美和子だ。分かったな」
「わかりました」
さっそく俺は服を取り出すと、着替える様に言った。
彼女は俺の目を全く気にせず、すぽんと血で汚れた服を脱いでしまう。白いパンツが俺の目に入って、思わず見入ってしまい、いかん、と思っている間に、彼女はさっさとズボンとシャツを着てしまった。
サイズは大体あっていたが、そういえばベルトを忘れてる。
「よし。それじゃ、買い物に行こう」
「私はねむらなければならない」
なんとか説き伏せると、鏡の前で親子に見えるかを確認して、手早く二度目の買い物に出掛けた。
いくらなんでも、子供用のパンツを一人で買う度胸は無い。気が付いたものは片っ端から買って、なんとか運び込むと、2時を回っていた。
そういや風呂にも入ってないが、急がなければならない。
彼女をパジャマに着替えさせて、再び眠らせると、俺は会社へ向かった。言い訳と、これからどうすればいいかを考えながら。
俺は初めて、仕事がつまらないという理由以外で、身が入らないという経験をしたのだった。
−4−
落ち着いて話ができるようになったのは、2日後の事だった。
仕事は相変わらず忙しかった。プログラマーの仕事なんてのは、いればいただけ増えていくものだ。
さっさと逃げて家に帰っても、美和子はずっと眠ったままだった。
なんとか一日一回風呂に入れてやる時も、ほとんど口をきかない。彼女の体を洗いながら、いたずら心を出して危険な所を触ってみたりしたが、彼女の無表情な視線が揺らぐ事はなかった。こんなチャンスは無いと思いながらも、うしろめたくなった俺は、ただ洗うことに集中するしかなかった。
指に触れる少女の肌の感触と、裸を眺めることだけを楽しみに、俺はただ待つ事を心に決めた。
起こしては食事をさせ、風呂に入れてやりながら、それ以外の時間、美和子はただただ眠り続けていた。
その日、目覚めると、すでに美和子は起きて本棚を眺めていた。
「おはよう」と言うと、彼女は振り向いて、話し出した。
「まず、ことばをおぼえたい。何を見たらいい?」
「もういいのか?」
「からだはなおった。せいじとはなすのに、ことばを知らなくちゃいけない。たくさんかんがえてることがあっても、思っていることぜんぶが、今ははなせない」
「ちょっと待て、ちょっと待て」と言いながら起き出すと、俺は着替えながら話しかけた。
「ちょうどいい、着替えるついでに、まず、見せてくれ」
無表情にパジャマを脱ぎ捨てた彼女の体を、向きを返させながら丹念に眺めてみたが、もう何の痕跡も見つからなかった。
彼女の胸はまっ平らで、ぽつんとそこだけほんのりピンク色の乳首が見えていた。なんのくびれも無い腰は小さくて、肉の無い少年の様なお尻は、俺が買ってきたプリント付きのパンツに包まれている。ばさりと無造作に伸びた髪をかきあげた首筋が、たよりないほど細かった。
やせっぽちの彼女の体は、子供らしさのまま、見事なバランスを保って、とてもかわいい。
彼女のなめらかな白い肌や、小さなお尻を眺めている間に、俺はいつのまにか興奮していた。
もぞもぞと腰を引いた俺は、その時彼女の視線を感じて、恥ずかしくなった。
「ゴホン、なんともないな。もう着ていいぞ。それでだな、お前が言葉を覚えたいのは分かったが、俺は先生みたいに教える事はできん。日本語は色々難しいんだ……」
「ことばの表と、いみが分かれば、それでいいです。つかい方は、もうおぼえたから」
文法は分かったから、単語を教えろという事らしい。見た目はともかく、彼女(?)は知能がすごく高いらしい。
そう考えた時、素朴な疑問が浮かんだ。
「そういえば、シギルは男なのか? 女なのか?」
しばらく考えて、彼女は答えた。
「どっちでもない。うまく言えない」
やっぱり、と内心思い、「分かった」と答えながら、俺は本棚から国語辞典を取り出した。
「これに大体書いてある」、読めるのか、と聞こうとして、かなが振ってあるのを思い出した。ひらがな、カタカナが読めないはずがない。後は自分でできるだろう。
「明るい所で読め。目が悪くなるから」
「わかった。でもだいじょうぶ。私がなおせる」
そうだった。アホらしくなったので、しばらくほっとくことにして、俺は食事を作りにキッチンへ向かった。
ちょうど週末だし、時間ならたっぷりとあった。
事件が起こったのは、翌日の事だった。
彼女はめきめきと言葉を覚えて、食事の度に、話す言葉が豊富になっていくのが分かった。
必要な時以外、国語辞典にかじりついているので、実質眠っていた時と大差なかったが、俺は喜びを感じていた。
その時も、昼飯を一緒にとっている時だった。
「問題がある。山のようにある。美和子ちゃんをどうするのかという事とか」
「どういう事ですか。すぐに起こすことができるし、これからは私が寝ている時、交代で出てくればいいと思いますが」
彼女はすっかり普通に話しているが、逆に女の子らしいしゃべり方をしなくなっていた。
「俺と美和子ちゃんは、他人だという事さ。そういえば、美和子ちゃんはお前の事を知ってるのか?」
「最初に会った時、見られてはいますが、今、こうなっているとは知らないはずです」
「見たのか、そりゃショックだったろう。いっその事、全ての事情が分かっていた方が、会いやすいんだがな……。なあ、美和子ちゃんとお前は話ができるのか?」
「話はできません。でも脳を刺激して、私の気持ちを伝えることはできます」
「なんとかお前と俺を、怖がらないようにできないか?」
「できます。でも、どうしてなのか分かりません。私は分かりますが、どうして誠司を怖がるのですか?」
「誠司さんと言え。突然意識を失って、起きたら見たことも無い所で、見たことも無い人と一緒に住んでいたら、普通は怖がるだろう」
「それは、私にも言える事ですが。誠司さんは怖くありません。たまに意味不明の行動を取りますが、私をかばってくれています」
「バカヤロー! お前はヒトじゃないからいいが、美和子ちゃんは人間の子供なんだぞ!」
痛いところをつつかれて、思わず声が大きくなった。
「……あのな、普通、子供は親と一緒に住んでるものなんだ。美和子ちゃんの親は心配して、警察に通報してるはずだ。俺はそれで捕まれば誘拐犯という事になる。……そうだ、お前、今からでも家に帰ることは出来ないか?」
「私の家ではないと思いますが……。それに、たぶん、彼らは警察には通報していないと思います」
「そんな事、お前にどうして分かる」
「前後の事情からして、私の仲間がさせないからです」
「それは……ひょっとして、お前みたいに別の奴がとりついたって事か?」
彼女は首を振って、
「わかりません。そうか、そうでなければ別の方法があります。どちらにしても、美和子さんは、いない事にはなっていないでしょう」
「お前等、やっぱり地球を侵略しに来たのと違うのか? 美和子ちゃんの体から出てってもらうのが、一番じゃないのか?」
「信じて下さいと言っても、しょうがありません。迷惑はなるべくかけないようにしますが、もうしばらく……何日かはここにいさせて下さい。あなたは事情を知っていて、協力してくれる唯一の人間なのですから……」
「何をする気なんだ?」
「私の望む場所へ行くための、失くした捜し物です。見つかれば、すぐにも出て行きます」
「出て行くって……どっちだ? 俺の家か? その体か?」
「この家です、この体から出るのは難しい。帰る時までは出れません」
彼女の体が震えたのはその時だった。
「言葉を覚えるのは疲れる……私は疲れました……美和子さんがそろそろ出てきます……怖がらないようには……やります……」
俺は、突然の事に、硬直してその様子を見守っていた。
彼女は、しばらく目をつぶって上半身をふらふらと揺らしていたが、俺が肩を押さえて止めると、目を開けた。
ボーっとした感じで、目をさまよわせている。やがて目が会うと、俺は覚悟を決めて、話しかけた。
「会うのは二度目だね。覚えてるかな? 野々村誠司だ。食事中だけど、食べるかな?」
彼女は、目の前の食事を眺めてから、不思議そうに辺りを見回した。シギルがうまくやったのか、一番恐れていた反応は無かった。
「あなた、だれ?」
「野々村誠司だ。ただの、この家の主人だよ。美和子ちゃんはケガをしてたんだ。その時俺がそばにいたんで、治すために、ここに連れてきたんだよ」
「ほんと? おぼえてない」
「訳があるんだ。食べたらゆっくり教えてあげる。どうぞ、おいしいよ。俺が作ったんだ。美和子ちゃんの好きなものがわからないから、おいしくなかったら、何が好きか言ってごらん」
「……のどがかわいた」
一瞬、数日前の光景を思い出したが、これは単に今まで話していたせいだろう。
たまたま洋食だったので、俺は気を利かせて冷蔵庫からジュースを出して、コップに注いだ。
「はい」と渡すと、「ありがと」と小さい声が聞こえた。思わず微笑んで、俺は自分の食事をかたずけに、席についた。
人間らしい受け答えは、考えてみたら初めてだった。
−5−
美和子ちゃんには、なるべく正直に事情を話した。
と言っても、俺はまだ本当の事情を、シギルから聞いてはいない。だから、俺が知ってる限りの、今までの出来事を話してやっただけだ。
聞かれた事にはなるべく丁寧に説明して、何度となく美和子ちゃんは大丈夫だと言い聞かせてやった。
シギルの事も話した。疑う彼女に、奴に話しかけてごらんと言ってみると、やがて彼女は疑いながらも、真剣な顔でつぶやき始めた。
「シギルさん、きこえる? ほんとうにあたしの中にいるの?」
どんな反応が感じられたのか、眺めている俺には分からない。
「シギルさんは、わるいひと?」
ひとじゃないだろうと思ったが、やがて美和子ちゃんの口に浮かんだ微笑に、俺は見とれた。この子は将来、素晴らしい美人になるんじゃないかと、関係無いことが頭に浮かんだ。
「シギルさんは、みいがすき?」
みいというのは、彼女の呼び名らしい。みいちゃんだ。やがて浮かんだ幸せそうな表情に見とれながら、俺は少し不安になった。
目を開いた彼女は、笑みを浮かべたままちらりと俺を見て、あらぬ方向に視線をそらせた。
「どうだった」
「ふしぎなきもち……なにかがあたまの中で、ぴかぴかしてるの」
「やっぱりいただろう。お前のケガも直してくれたんだ。いい奴だよ」
俺自身は必ずしもいい奴だとは思っていなかったが、直してくれたのは本当の事だ。少なくとも正直な所は、信じてやっていいだろう。
「シギルさんは、せいじさんがすき?」
ぎょっとして見つめていたが、笑みを浮かべていた彼女の表情は、やがてゆっくりと眠るように変わった。
黙っているのに耐えられなくなって、俺はそっと聞いてみた。
「なんだって?」
「もうねるって」
俺の顔を見ると、彼女は笑い声を立てた。仏頂面の俺に、彼女は笑いながら言った。
「だいすきだって!」
俺はさらに渋い顔になった。誰がスライムの塊に大好きと言われて喜べるもんか。そういえば、今まで無表情だから全く気付かなかったが、あれにも感情があるらしい。
不思議な気分だった。
緊張は、完全にはほぐれていなかったが、話はできる状態になってきた。
それで俺達は、さしあたってお互いの事を尋ね合った。
親の事でも思い出しては泣き出す恐れがあるから、家族の話題は慎重に避けていく必要がある。今度の事になにか特殊な事情でもあるのかと思って色々つついてはみたが、彼女に心当たりは無いみたいだ。
美和子ちゃんは今年、小学三年生の9歳だった。家は中国地方の大きな都市にあるらしい。東京からだととんでもなく遠い。
「みいはおうちにかえれるの?」
「もちろん。ただし、シギルが美和子ちゃんの中からいなくなったらね」
「どうして?」
「シギルはここに用があるんだ。それがすまなきゃ出て行けないし、美和子ちゃんの家は、ここからずうっと遠くだからね」
「みいは、学校行かなきゃなんないよ」
俺はうーんとうなった。その事は考えなかった。
程度にもよるが、勉強が遅れたら、彼女の将来に影を落とすことになりかねない。教科書でもあればともかく、体ひとつで落ちてきた彼女に、俺が助けてやれることは無かった。
「美和子ちゃんは頭がいい?」
「あたまいいよ。だって、いつもテストで先生にほめられるもん」
「そりゃすごいな。それなら、少し手伝ってくれないかな。そんなに長い事じゃないから。夏休みがもう一回来たと思ってさ」
「なにを手伝うの?」
ハタと俺は困った。シギルが何をするつもりなのか、俺は具体的に聞いてはいない。今の彼女に必要なことは、ただここにいて欲しいという事だけだ。
シギルがいつ出てくるかは知らないが、奴と話したいと、その時痛切に思った。
「……急いでやってもらう事は無いよ。今度奴から良く聞いておくから、それまではこの家に慣れておいて欲しいな。さしあたって……そうだな、」
今できる事といえば、美和子ちゃんの事を良く知る事だ。
俺は世間話をしながら、彼女の好きなもの、嫌いなものを聞き出した。
好きなものはなんとかかなえてやって、嫌いなものや、嫌いな事は遠ざけてやる事が必要だ。
ひとわたり聞いた所で、彼女を寝室へ導き、ここを彼女の部屋にすることにして、しばらくかまわないで置くことにした。
お互いの緊張をほぐすには、一人になる事が重要だ。
彼女は素直に一人になった。たぶん今までの事で、疲れも感じていたんだろう。
一人になった俺は、キッチンでコーヒーカップを手に、いろいろな事を考え始めた。
彼女の家には、いずれ連絡しなければならないだろうが、シギルの言葉を信じて、うかつに確かめる訳にはいかなかった。
いつまで奴が帰ってこないか分からないが、このままだと、明日から俺が会社に行く時、彼女一人でここにいてもらわないと
いけなくなる。
シギルならともかく、彼女が我慢してくれるとは思えないし、暇を持て余すのは想像するまでもない。遊ぶのはかまわないが、外で遊ばせるのは、近所に彼女のことを覚えられてしまう事にもなる。
さらに身近な事を考えれば、風呂や着替えの問題もある。赤の他人の目の前で肌をさらすのは、幼児ならともかく、小学3年生ともなれば気になりだす年頃のはずだ。
一人なら気にもしてなかった事だが、部屋の汚れや散らかし具合も気になりだした。
しまいには、彼女の目に触れさせたくない本の隠し場所まで、考え始めていた。
不毛な考えより、とにかく仲良くなる事だ。と思考を中断して、俺は、今週分の洗濯をするために、洋服籠を脇にかかえた。
どかっという音がしたのは、30分程たった後だった。
鉄筋コンクリートのこのマンションは、防音にも優れている。そこも俺が気に入っていた所だ。
よほど大きな音がしたはずだ。もちろん音は、寝室の方から聞こえた。
「美和子ちゃん! 何かあったの!?」
ノックしながら話しかけると、中から「うぅーん」といううなり声がした。
ドアを開くと、頭のてっぺんを押さえながら悶えている彼女が、ベージュ色のじゅうたんの上にうずくまっている。
あたりには、自分では出した覚えの無い本が数冊ちらばっている。彼女がやったんだろう。
天井では、ブルンブルンと派手に電灯が揺れていた。
俺の頭は「?」で一杯になった。
「どうしたんだ? ケガした!?」
手をどけさせて、髪の毛の中を探ったが、ケガはしてないみたいだ。
「大丈夫、なんともなってない」と言うと、
「てんじょう」ときしむような声で彼女が言った。
「ぶつけたのかい?」と言いながら、そんなバカな、と思った。天井までは、立った彼女の頭から、さらに2mはある。
ベッドに座らせて、落ち着くまで頭を撫でていると、ようやく彼女は真っ赤な顔で目を開けた。
「何があったの?」
「うう……、ジャンプしたら、すごく高くとべたの……。面白くなって、なんどもジャンプしてたら、てんじょうにさわれたの」
「それで?」
「力いっぱいジャンプしたら、どこまでできるかって……思って、そしたら」
「みいちゃんは……すごいジャンプ力なんだね」
「ううん、今日からだよ」
俺は笑いを噛み殺しながら、何となく彼女の身に起こった事が分かってきた。
シギルだ。奴が何かしたに決まっている。
なんてこった。普通の女の子だと思っていたが、彼女も普通で無くなってしまっているらしい。
確かめるために、俺は、キッチンまで彼女を呼んだ。
そして俺は、はるか年下の女の子に、初めて腕相撲で負けたのだった。
−6−
大掃除は、思ったより短くてすんだ。
とにかく片付けてしまわないといけないものが結構ある。エロ本などもってのほかだ。
なんとか美和子ちゃんの居住空間を確保しようと片づけをしている内に、手持ち無沙汰な彼女が手伝ってくれるようになり、いつの間にか、我が家の大掃除に発展していった。
気を使って、重いものは持たさないようにしていたが、彼女は俺以上の腕力を見せ付けて、得意そうにしている。
腕相撲で負けた時の俺のくやしがりようを見て、面白がってるみたいだ。
「ほーら、見て」とか言いながら、肘付きの大きな椅子を持ち上げてみせる。
「残念ながら、その椅子は動かさなくていいんだよ」とか言ってみるものの、にじむくやしさに、彼女は笑った。
大掃除のせいで、ようやく打ち解けてきた彼女は、その後買い物に出た間、ずっとしゃべりっぱなしだった。
さながらマシンガンの弾のように話し続ける彼女に、あーだこーだと指示を与えて取りにやらせると、ようやくその間だけ俺の耳は暇になる。まったく。こんな事ならあんなに必死になって、好き嫌いを聞き出さなくてもよかった。
友達の人数や、名前と性格、好きな音楽や芸能人まで覚えてしまう頃、ようやく俺達は家に着いた。
ぐったり疲れてソファに寝転ぶと、トイレから出てきた彼女が、テーブルの向こうから声を掛けてきた。
「見て!」
目を開けると、ぴょんと彼女がはねた。
小さな体が天井近くまで上がると、キッチンのテーブルを飛び越えて、ソファの脇にどすんと着地する。エネルギーがあり余っている感じだ。
「すごい、すごい」とほめると、「あけて」と言いながら俺の隣にもぐり込んできた。
「俺は疲れちゃったから、しばらく自分の部屋に行っていいよ。あそこにテレビもあるし」
「ううん、後で!ねえ、他にやることない?なんで一人で外に出ちゃいけないの?」
内心閉口しながらも、俺は起き上がって彼女のスペースを空けた。押し付けられた体から、汗に混じった彼女の匂いがして、はっとしたせいもある。
ふざけて寄りかかると、きゃあと彼女は言って、俺の脇腹をくすぐってくる。くすぐり返すと、きゃあきゃあ言いながら、俺の手を押さえて暴れだす。なんとかツボに入って、ようやく彼女が笑い出すと、俺は手を離そうとした。
その時小さな痛みがあった。
それは、彼女がつかんでいる俺のむきだしの腕、ちょうど触れている肌の間からした。
俺達は、二人とも顔を見合わせた。彼女も感じたらしい。
さらに眉を寄せると、美和子ちゃんは不思議そうな顔をした。垂れたまゆをきゅっと上げて、彼女は話し出した。
「あれれ……、なんでだろ。せいじさん、変なこと考えてる?」
展開が分からずに黙っていると、さらに彼女は言った。
「だっこ?へー、せいじさん、みいちゃんをだっこしたいの?においもかぎたいの?変なの?」
はっと俺は気付いた。
かっとした俺がとっさに腕を引っ張ると、ぷつんと、何かが切れるような痛みがもう一度して、腕が離れた。
腕を見たが、何の傷も無い。
「ごめん」
痛いと手をさする彼女を見下ろしながら、俺は赤くなった。
「みい、美和子ちゃん、今、俺からなんか感じたのかい!?」
「うん、なんか見えたの。さっき、シギルさんがさわってきたみたいに。なんでだろ、誠司さんのきもちが見えたよ」
あいつめ、こんな事もできたのか!
「心配しなくてもだいじょぶだ。……おい!、シギル!!、聞いてるか!」
「キャッ、……なに?」
突然の事に、彼女は縮こまって言った。
「大丈夫。シギルにちょっと話があるだけだよ。……こら! シギル! こんな事は二度とするなよ!! 俺の許可無く勝手な真似をするなら、俺にも考えがあるぞ!」
彼女はおびえた表情で、俺を見ている。しばらく待っても、奴が出てくる様子は無かった。
「……ごめん。美和子ちゃんを怒ったつもりはないんだ。……そのう、シギルは今、俺とお前をつないで、俺の気持ちをお前に分かる様にしたらしいんだ。二度とさせないから、俺のことを嫌いにならないでくれ……」
どっぷりと落ち込んで、頬の熱さを感じながら、やっとそれだけ言った。
奴は、俺と彼女を何かで直接繋いだんだ。ひょっとしたら、俺の中にも、奴を潜り込ませるつもりだったかもしれない。
胸の中に秘めていた欲望まで、彼女につつぬけになってしまったのだ!
頭の中で奴を焼き殺す姿を想像しながら、俺はその場を逃げたくなった。
その前に、確かめなけりゃならない事がある。
「……おこらない?」
「もちろん。さっきはごめん。美和子ちゃんこそ怒ってるんじゃないの?」
「なんで?」
「なんでって……」
俺の変態的な欲望を読み取ったのなら、100%俺は嫌われてる。そう言えば「『気持ち』が見える」と彼女は言った。
「どんなものが見えたの?」
「おこらない?」
「怒らないって! ごめん、どうしても知りたいんだ」
「んーと、見えたのは……、みいがかわいいっていう気持ちがいっぱい……、好きだっていうのがちょっぴり……、だっこしたいとか、においをかぎたいっていうのが少し……。まだいっぱいあったけど、よく見ないうちに、見えなくなっちゃった」
穴を掘って埋まりたい気分になった。確かにあの時は、そういう気持ちが前面に出ていた時だ。もっとすごい妄想までしていなくて良かったが、なんの慰めにもならない。
「はっきり見えたから、ほんとでしょ?ちがうの?」
「…………」
嘘じゃないから言えない事もある。
確かに悪いのはシギルだが、俺に言い訳はできない。見えたのは俺の気持ちで、本当の事だ。
「誠司さん、まっかだよ! あたしをだっこしたいの?」
俺は、額の汗を感じながら、小さくうなずいた。
結局、俺は極度にびくびくしながらも、彼女を抱き上げ、抱っこする事に成功した。
小さな胸に顔をうずめて、そっと息を吸うと、彼女は、俺の背中をぽんぽんと叩いて、クスクス笑い出した。
その時にはもう、俺も開き直って、一緒に笑っていた。
初めて抱く少女の体からは、なにか懐かしい香りがした。
続く.