『呪縛の色相』より最終章

   「黒い帳」  石薬師 暁生



イラスト:河澄翔


「どうしたの、お父さん。難しい顔をして」
 理名が心配そうな表情で、川口の俯いた顔を覗き込んだ。しかし川口は首を振って答えた。
「いや、何でもないんだ。ただ、暑いな」
「そう? こんなにクーラーきいてるのに」
 理名は不思議そうにもう一度、川口の顔を覗き込む。川口は絶対に、何か悩んでいる、理名はそう思っていた。川口は嘘をつくのが下手だ。そのくらいは理名にでも読み取ることは出来る。
 川口がふさぎ込むようになったのは、三日前の出校日から帰ってきてからだ。学校で何かあったのだろうか、理名はそう思った。しかし、その何かが何なのか、理名には判らなかった。
「……それより理名、今日はどこかに行くのか?」
 身支度を整え始めた理名に向かって、川口は話をはぐらかすように訊いた。理名は笑って答えた。
「昨日言ったでしょ。学校のプールに行ってくるの。藤井さんと一緒に」
 その言葉を聞いた瞬間、川口の目が大きく見開かれた。眉間に寄った皺に、汗が浮いている。理名はそんな川口を怪訝そうに見つめながらも、時計を見ると荷物を背負った。
「じゃ、時間だから、行ってきます」
「……ああ、いってらっしゃい」
「お昼御飯、冷蔵庫に入れといたから、レンジで温めて食べてね」
 玄関で靴を履きながら、理名はくすっ、と笑った。
「何かおかしい。奥さんみたいなセリフ」
 理名は扉を開けて、もう一度大きな声で行ってきますと言うと、元気に駆けだした。川口は今度は返事をせず、黙ったままで腕を組んだ。
 ──もう、終わりなのか。この生活も。
 川口は三日前のことを、思い返していた。


「教頭先生、すみません。お話があるんですが、少し時間を頂けないでしょうか」
「木崎先生、何ですか、話とは」
「ここでは話しにくいです。どうですか、今日はもう何も仕事はないでしょう? いい店があるんです。一緒に食事でもしながら、話しませんか?」
「しかし、娘が……」
「……その理名ちゃんに関する話なんですがね」
「……何の話だ?」
「今更とぼけても仕方ありませんよ。川口理名ちゃんのことで、お話したいんです。来て、いただけますか?」
「…………」


「……それで、いい店とは、どこなんだ?」
「そんな所、ありませんよ。ただの口実です。いや、別にこの僕の車の中でお話が円滑に終わるのなら、その後はどこにでもお連れします。でもこの話は、店の中でする内容ではないので」
「……どういう意味だ。私にはさっぱり判らんね。降ろしてくれないか。娘が家で、心配している」
「大丈夫ですよ。うちの利奈が、ちゃんとあなたが遅くなることは伝えているし、一緒に遊んでいるはずですから」
「うちの『りな』……」
「あっ、その様子では理名ちゃん、僕たちのことを本当に内緒にしてましたね。本当に真面目な子だ」
「『りな』……藤井利奈のことか?」
「さすが、女の子に関しては詳しいですね」
「…………」
「やですね。そこで気分を害されると、核心に入りにくいじゃないですか。僕も教師生命賭けてこんなことをしてるんですから」
「……早く話せ」
「では教頭先生、いえ川口さん、あなた、川口理名に対して何をしてますか?」
「!」
「……その様子では、やはり何かをしているようですね」
「……それは、それは父親として、出来るだけのことをしてやろうと、これまでの分までも……」
「それは、百歩譲って一緒に風呂に入るまでは許されるでしょう。それでもこの歳になってれば異常ですが。しかし、遠足を休ませてまで、誰もいない学校に娘を連れ込んで、一体何をするんですか!」
「……! どうして」
「どうして知っているのかなんてことは、どうでもいいことです。僕たちは去年、あなたが利奈の下着を盗んで校内でみだらなことをしていたのを目撃しています。この一年間、ずっとあなたの動向を気にしていました。まさか、孤児院での寄付からの計画だったんじゃないでしょうね」
「……そこまで、知られているのか」
「僕は非常に肚が立っています。利奈もそうです。本来なら、あなたに話す必要はなく、直接園長に話すべきでしょう。しかし、僕はそうはしなかった」
「……なぜだ?」
「僕も、あなたに似た状況であることに、変わりはないんですよ。僕は、生徒の藤井利奈と付き合っています。肉体関係も、あります」
「!」
「このことを、逆にあなたが園長に言えば、僕の方が身の破滅です。これで、条件はフィフティフィフティになります」
「目的は、一体なんだ」
「あなたの良心に、期待するということですよ。この夏休みが終わるまでに、あなたがこの問題をどう処理するのかによって、僕たちの対応も変わります」
「……どうすれば、いいんだ?」
「それは僕にも、判りません。ただ、あなたが背徳者として裁かれることが、理名ちゃんにとってもあなたにとっても最良の結果だとは思いません。だから、こうして話をすることにしたんです」
「…………」
「……僕たちはね、理名ちゃんが大好きなんです」
「…………」
「だから、いろいろと聞いてみたんですよ。利奈に誘わせて、僕の車で丸善まで、お菓子を買いにも行きました。その時の理名ちゃんは、あなたのことを褒めてばかりいました。僕も、そんな言葉を信じてみたくなったのかも、知れません」
「……そう、か」
「とりあえず、食事するような雰囲気でもなくなってしまいましたね。家まで送りましょう」
「……私は一体、どうすればいいんだろうか」
「……そのことですが、一つだけ、お勧めしたいことがあります」
「何を?」
「『ひかりの家』です。あそこのシスターは随分と人がよくて、担任になったと言った途端、いろんなことを話してくれましたよ。そう、理名ちゃんの過去のことも」
「理名の、過去……」
「本人も覚えていないようなことも、シスターは話してくれました。聞いてみては、どうですか?」
「……ありがとう」
「出来れば、僕も新学期にはそう返事したいものです。……着きましたよ、どうぞ」


 川口の回想を、電話のベルが妨げた。川口は苛立たしく受話器を取った。


「はい、川口です」
『おひさしぶりです、あなた』
「!……涼子か」
『あの娘は、どうしてるの』
「今、出掛けている。今更、何のようだ」
『別に。ただ、わたしたちの結婚記念日がもうすぐだったから、電話してみただけ』
「結婚記念日だと? 今のこの状況で、何が結婚記念日だ」
『……そう、それがあなたの返事なら、ちょうどいいわ』
「……どういうことだ?」
『わたし、結婚するつもりです』
「! 何だと」
『だからこの際、正式に離婚しておこうと思って。あなたがそういうつもりなら、わたしだってもう、こんな状況は嫌だから』
「…………」
『今晩、そちらに伺います』


 電話は一方的に切られた。川口は忌ま忌ましげに舌打ちをして、受話器を叩きつけるようにして置いた。
 ──まったく、どいつもこいつも。
 理名とのことがバレないにしても、離婚ともなれば社会的な人格評価の点で傷がつく。単なる離婚なら、最近では社会も寛容にはなっている。だが、もし涼子が理由について口を少しでも滑らせば、川口は教員を続けることが出来ないだろう。そこから理名とのことが露顕する恐れも、ある。
 川口はいても立ってもいられなくなった。このまま家で休んでいても、逼迫した精神が澱んで膠着するだけだ。川口は車のキーを取った。学校が近いので、ほとんど乗ることのなかった車だ。
 川口の脳裏に、木崎の残した言葉が浮かんでいた。


「あらあら、川口さん、どうもお久しぶりです」
「こんにちは、シスター。御無沙汰しています」
「まあ、お掛けになって。ついこの間、川口さんの学校の先生がいらっしゃいまして、色々話を伺いましたよ。理名ちゃん、元気でやってるそうですね」
「ええ……」
「どうされました? 少し顔色が悪いようですが」
「いえ、心配いりません。それより、少し訊きたいことがあるんです」
「ええ、ええ、どうぞ。わたしがお答えできることでしたら」
「……理名の、過去についてです」
「!」
「あの娘は、どうしてここにいたんでしょうか。何か、あったのですか?」
「……あの先生に、お聞きになりましたね」
「ええ、しかし内容までは……」
「ここだけのお話ということにしていただいたつもりだったのですが」
「理名の話なら、私の方に聞く権利があります!」
「そう、ですね……判りました。お話します」
「…………」
「あの娘には、父親がいました。母親は、誰だか判らないそうです。とにかく、まだ歯の生えない時期から、父と娘の二人で暮らしていたそうです」
「父子家庭……」
「ええ、そしてその父親は、変態でした」
「!」
「異常、という言い方もありますね。その父親は理名ちゃんが二本の脚で立ち上がる前から、理名ちゃんに、その、性的ないたずらを繰り返していたのです」
「幼児愛好者……」
「そういう言い方も、あるんですね。それはもう、ひどいものでした。何度か、理名ちゃんは入院したそうです。ここに来たときなど……」
「シスター……」
「……すみません。でも、わたしはこのことを話す時には、泣かずにおれないのです。理名ちゃんは、肛門に激しい裂傷を負っていました。レイプ、されていたのです」
「…………」
「理名ちゃんは、頭のいい子でした。当時はまだ四歳にもならなかったのに、しっかりとお話出来たのです。実の父親に、どんなことをされたのか、とか、嬉しそうに話していたそうです。看護婦が、教えてくれました」
「嬉しそうに?」
「そうです。その時の理名ちゃんは、それが虐待されているのだとは思っていずに、一種の愛情表現だと、思っていたのでしょう。本当に明るく、楽しそうに話してくれたそうです。聞くもおぞましい行為を……」
「…………」
「……ここに来た理由は、父親が窃盗で捕まったからです。その時に理名ちゃんは、父親に足蹴にされたそうです。その時に『お前のような奴は、俺の子じゃない』と叫んで、逮捕されました。どうやら、父親は窃盗の時に、理名ちゃんにも手伝わせていたそうで、それが失敗したから捕まったのだと、父親は思っていたようです」
「…………」
「それからしばらく、理名ちゃんは自閉症になりました。そんな父親でも、理名ちゃんは大好きだった。それなのに父親は『俺の子じゃない』と吐き捨てて、二度と姿を見せませんでした。理名ちゃんはずっと、心を閉ざしていたのです」
「…………」
「……あれだけお話するようになったのも、実は川口さんがこちらにお見えになってからなんですよ。どうも同年代の子には心を開かなくて、こちらも苦心していましたのに、川口さんにはよくなついて……どうしました? 顔が真っ青ですよ」
「……すみません、気分がすぐれないので、これで失礼します」
「お送りしましょうか?」
「いえ、自分で帰れますので、お気遣いなく。それでは……」


 川口の心に、穴が開いていた。埋めようのない、大きな穴だった。
 ──私は、何ということを!
 いくら悔いても、悔やみ切れるものではなかった。ようやく川口は、自分の罪の深さに気がついたのだ。
 理名の心の傷を利用し、自分の性欲を満たし続けていた。最近では、理名が喜ぶしすすんでしたがるので、毎晩のように理名を犯していた。しかしその『理名』は、幼少の『理名』は、虐待されることでしか父親と触れ合えなかった哀れな少女だったのだ。
 ──こんな私に、一体何が出来るというのだ!
 川口は木崎の言葉を思い出していた。あなたの良心に、期待すると。
 ──私に、良心などなかったではないか。私は悪魔だ。どんな少女でも自分の食い物にしてしまう、貪欲な悪魔だ!
 車を運転しながら、川口は大声で笑った。何もおかしくはない。おかしくはないが、空虚な笑いが止まらなかった。
「はははははは、そうだ。私は悪魔なのだ。罪なんぞくそくらえだ!」


「あ、おかえりなさい」
「ただいま、理名」
 川口は寄っていた。「ひかりの家」から帰る時に、居酒屋を数軒ハシゴしている。
「ご飯どうする? 一応あるんだけど、先に食べちゃった」
 川口はふらふらとおぼつかない足取りで、エプロン姿の理名の背後に忍び寄るといきなりしがみついた。
「きゃっ!」
「理名ぁ、愛してるよ」
「やめて、お父さん」
 しかし理名の声は怒っていない。酔っぱらってふらふらになった川口など、初めて見るのだ。怒るよりかは、心配であった。
「こんなんじゃ、お風呂にも入れないね」
「理名ぁ、入れてくれ」
「やだぁ」
 理名は楽しそうに笑いながら、川口に肩を貸した。理名に川口を支えられるわけもないが、ないよりはましだった。
「じゃあ、今日は寝ちゃいましょう」
「一緒に寝てくれぇ」
「もう」
 寝室に運びながら、理名は川口に一体なにがあったのだろうと思った。普段は一滴も飲まない川口が、酔いつぶれているのだ。余程、嫌なことでもあったのだろう。
 川口をなんとかベッドに横たえると、理名は心配そうに赤く染まっている川口の顔を見つめた。
「お水、持ってこようか?」
「……いい」
「……ねえ、お父さん」
 理名はベッドの脇に腰を下ろした。
「わたし、お父さんにはすごく感謝してるの。引き取ってくれたこと、すごく嬉しかったし、お父さん、いつもわたしの話を聞いてくれる。こっちの学校には変わった子がいっぱいいて楽しいし、もうこれ以上の幸せはないと思う」
「……」
「だからね、わたしもお父さんに何かしてあげたいの。ねえ、何か悩みがあるんでしょ。わたしに話して。いつもお父さん、わたしのことは聞いてくるのに自分のこと言ってくれないんだもん」
「……私は、そんな立派なものじゃないよ」
「え?」
 川口の酔いが、急激に引きつつあった。
「じゃあ、聞いてくれ。これまでに私がしてきたことを」


 川口が話し終わっても、まだ理名は信じられないといった顔をしていた。
「うそ。そんなのわたし、全然知らない」
「だから理名は、幼い時の記憶を、人格と共に閉じ込めてしまったんだよ、自分の中に。そして私はそれを利用して、自分の欲望を満たす道具として、理名を引き取った」
 川口が力のない笑みを洩らした。それは自嘲の、笑みだった。
「どうだ、私が汚く見えてきただろう。卑怯者で、いやらしくて……」
「やめて!」
 理名は耳を塞いで立ち上がった。
「しかし、それが真実なんだ」
「違う!」
 激しく首を振って、理名は否定した。
「絶対に違う。お父さんはそんな人じゃない」
「でも私は自分だけのために……」
「違うの! たとえどんな目的でわたしを引き取ったんだとしても、わたしの知らない間にどんなひどいことをしてても、わたしの前ではお父さんは立派なお父さんなの。あのお父さんは、絶対に偽物なんかじゃない」
「……じゃあ、今すぐ醜い『お父さん』を見せてやる!」
 川口は横になったままで、理名の腕を掴んで強く引いた。理名はバランスを崩して、川口の上に倒れた。しかし、自分から動こうとはしなかった。
「……どうした、抵抗しないのか?」
「……いいよ」
 理名は全身の力を抜いていた。全てを、川口に預けていた。
「お父さんがしたいんなら、何してもいいよ」
「……理名」
「だってわたし、お父さん、好きだもん」
 理名はぼろぼろと涙をこぼしていた。それでも泣き顔を見られたくないのか、顔を川口の胸に埋めた。
「ずるいよ、もう一人の『理名』は。わたしの知らない間に、たくさんお父さんにかわいがってもらって」
「理名」
「ねえ、わたしにもして。いっぱいして。わたし、お父さんのしたいことなら、なんでもしてあげるから……」
「……わかった」
 理名は一瞬だけ顔を上げると、思い切り川口にしがみついた。


「それじゃあ、電気をつけて、服を脱いで」
「うん」
 理名は言われた通りに寝室の電気をつけて、服を脱ぎはじめた。エプロン、Tシャツ、スカートと脱ぎ落とすと、急に理名ははにかみ、笑った。
「やっぱり、ちょっと恥ずかしいけど」
 しかし理名は躊躇うことなく、パンツまで下ろした。一糸まとわぬ理名の裸身が、眩しかった。川口は理名を招き寄せると、ベッドに上げた。
「理名、好きだよ」
「わたしも、お父さん大好き」
 川口は、理名の乳首を吸った。すると理名はびっくりした顔をした後、真っ赤に頬を染めた。
「どうした?」
「……だって、こんなに気持ちいいとは……」
 そこまで言って、理名はぷいっ、と横を向く。川口は、いつものいたずらとは違う、こそばゆいような感覚に包まれていた。そう、これは一方的ないたずらなどではなかった。互いに望み、互いに求め逢う、本当の性愛なのだ。
 川口が理名の裂け目に口をつけると、理名は唇を噛んで我慢した。恥ずかしいのと、気持ちいいのと、入り交じった複雑な状況だ。
「理名、ちゃんと濡れてるぞ」
「いや、そんなこと、言わないで……あっ」
 川口の舌が、一番敏感な所に触れた。理名は初めて味わう感覚に当惑しながら、ゆっくりと川口の頭を脚で挟んだ。
「あっ、あっ、なんか、よくわかんないっ」
「大丈夫だ、全て任せて」
 理名の身体から強張りがなくなり、理名の声がひときわ高くなる。川口は理名の脚を大きく開いて持ち上げると、アヌスにも舌を這わせた。
「やっ、そ、そんなとこまで……」
「そう、お父さんは舐めちゃうぞ」
「で、でも、そこ」
 肉体的には、今の理名もいつもの『理名』も同じだから、感じる部分は同じようだった。川口は重点的にアヌスを攻めた。理名が切ない声を立てる。
「……じゃあ、理名。そろそろいくぞ」
「……うん」
 理名は呼吸を乱しながら、短く答えた。川口は自分も全裸になると、肉棒を握りしめた。理名は少し怖そうに、それを見ている。川口は苦笑した。
「大丈夫、痛くないからね」
「でも、ちょっと、怖い」
 そう言って、理名は両手で顔を覆ってしまった。川口は苦笑したまま、亀頭を理名の裂け目に押し当てる。理名の身体が再び強張る。
「いくよ」
「ああっ」
 ぬるっ、と川口の肉棒は理名の中に滑り込んだ。理名は両手で、シーツを掴んだ。
「あっ、あん、あ、すごぉい」
 川口の言う通り、痛みなど全くなかった。肉棒はスムーズに出入りし、理名は腰が勝手に動いてしまうのに気付いた。
「あ、理名、いいよ」
「お、お父さんん、わたしもぉ」
 川口は全ての罪を禊ごうとでもするように、激しく腰を振った。理名の細い腰はそれでも壊れることなく、川口の運動を受け止めている。
 二人は今、何も考えていなかった。ただ、快楽の荒波の中にいる自分だけを、感じていた。その時、
「あなた!」
 予想外の声に、川口は動転した。腰の動きが、止まる。
「涼子! どうしてここに」
「今日電話したでしょう! やっぱりこういうことだったのね」
 川口の妻、涼子が、寝室のドアのところに立ち尽くしていた。信じられないといった顔をしている。
「今晩来るって言ったのに、これはどういうこと? わたしに見せつけたかったの?」
 半分涙声になりながら、涼子は言った。川口には、返す言葉がなかった。理名も雰囲気に飲まれ、身を起こす以外には何もできなかった。
「涼子……」
「全部嘘だったのよ!」
 涼子の叫びは、悲痛なものだった。
「結婚したいっていうのも、離婚の話をするっていうのも、みんな嘘! ただあなたの反応が知りたくて、言っただけなのよ!」
 涙を溢れさす涼子の目が、血走っている。
「……そう、その女がみんな悪いのね。この売女め!」
 涼子の後ろに回っていた手が、突き出された。手には、さっきまで理名が握っていた万能包丁があった。
「涼子、何をする!」
「こうするのよ!」
 涼子はベッドに向かって躍りかかった。理名は動けなかった。
「やめろ!」
 川口が間一髪で涼子を突き飛ばした。それでも刃は理名の肩をかすめた。白い肌に、真紅の血が伝う。
「死ね!」
「やめるんだ!」
 もみ合う二人を前にして、理名は身じろぎ一つ出来なかった。瞬きさえ出来ないまま、二人を見守るだけだった。
「やめてくれ! 涼子」
「下がってて、あなた。あなたを騙している女は、わたしが始末するわ」
「何を言ってるんだ」
「みんな、あの女が悪いのよ!」
 執念に取り憑かれた涼子は、気合とともに川口を突き飛ばした。そしてそのまま、ベッドの上の理名へ突進する。
「やめろ!」
 その間に、川口が飛び込んだ。腰に構えていた涼子の包丁は、川口の剥き出しになっている脇腹に深く、突き刺さった。
「あがっ!」
 その部屋の時間が、止まった。二人の女が硬直して、目を見開く。そして川口だけが、ゆっくりと、ゆっくりとバランスを崩してゆく。
 音を立てて、川口が倒れた。何言かを呻いているようだが、血に混じって吐きだされる言葉は不明瞭で、しっかりとは聞き取れなかった。
 涼子ははっ、と我に返ると、自分の両手を見つめた。真っ赤に濡れている。
「……あ、あなた」
 川口の呻きが、途切れがちになり、やがて止まった。涼子は川口の亡骸と自分の手を何度も見比べてから、ゆっくりとあとずさった。
「……ち、ちがう。わたし、わたし、あなたを殺すつもりなんて……ただ、あなたを騙している女を殺したくて……」
 涼子の背中が、壁に当たった。その瞬間、涼子は駆けだした。
「ち、違うのぉ!」
 何処へ行こうというのか、涼子は裸足のままで玄関を飛びだしていった。部屋に残されたのは、川口の亡骸と、理名だった。
 理名は硬直したままだった。全てが唐突に始まり、そして唐突に終わってしまった。理解を越えた、出来事だった。理名はただ、真実を見ようとした。がたがたと震えながら、ベッドから這いずり落ち、川口の側まで近寄った。
「おとう、さん」
 呼びかけたが、川口は答えない。
「おとう、さん。起きて」
 手を伸ばして、肩を揺すった。それでも川口は起きない。
「おとうさん」
 川口は、白目を剥いて死んでいた。その事実だけは、確実なことだった。
「おとうさん!」
 理名は川口にしがみついた。
「おとうさん! おとうさん! おとうさん!……」
 理名には叫びつづけることぐらいしか、思いつかなかった。ただ必死に、叫び続けた。外で車のブレーキ音と、人を撥ねる鈍い音がしたことすら、理名の耳には入らなかった。信じられない、信じたくない事実との対面。理名は何が何だか判らなくなった。


 翌朝、警察が駆けつけた頃には、理名は空を見つめていた。
 川口の屍に寄り添うようにして、全裸のまま、空を見つめ続けていた。
 警察は少女を保護した。尋問しようにも、少女は外界との連絡を一切断っていた。
 そんな少女が、一言だけ漏らした言葉があった。生真面目な警察官が、それを手帳に書き留めている。
 ──『おとうさん』は、どこにいるの?
 その一言だけ残して、少女は何も言わなかった。まるで周囲を暗闇で覆われているかのように、静寂に身を置くように、何も見ず、何も聞かず、ただ人形のように少女は、殻を留めているだけだった。



終わり