「白猿譜」  石薬師 暁生



「……どうしよう、まよっちゃった」
「お嬢ちゃん、なにかお困りかい?」
「あ……」
「恐がらなくてもいいよ。怪しい者じゃない」
「…………」
「……そりゃ、こんな森の中でいきなり出てきたら、恐がるのも無理はないかな。でもね、私はあそこの洋館の住人なんだよ。ここは庭みたいなものなんだ」
「……ここ、おじいちゃんのおにわなの?」
「はははは、私の敷地、というわけじゃないがね。で、どうしたんだい?」
「……あのね、まよっちゃったの」
「あれあれ、それは大変だね。お嬢ちゃんは、この近くに住んでるのかい?」
「ううん、ぱぱとままと、あそびにきたの。そしたら、はぐれちゃって……」
「おお、よしよし。泣くんじゃないよ。おじいちゃんが、ちゃんと帰してあげるからね。でも、その前に、ちょっとおじいちゃんちに寄らないかい?」
「えー、でも」
「まだ日暮れには時間があるよ。そんなに慌てて帰らなくてもいいだろう。それよりもね、私の孫と少し、遊んでやって欲しいんだ」
「おじいちゃんの、まご……」
「そう。ちょうどお嬢ちゃんぐらいの歳なんだが、ちょっと引っ込み思案な子でね。あまり他の子と遊びたがらないんだ。だからほんの少しだけでいい、孫に会ってやってくれないかな?」
「……でも、ままがしんぱいするし……」
「そんな長い時間じゃないよ。ほら、見て。あんな回りに何もないところに住んでるとね、なんだか寂しくなって、人恋しくなってくるもんなんだ。私もね、あそこで孫と二人だけになってしまって、随分と寂しい生活になってしまった」
「……ぱぱとまま、いないの?」
「ああ。母親は幼い孫を残して、死んでしまった……」
「しんじゃった、の……」
「……私はもうこんな歳だから、諦めもつくさ。でも、あの子だけはどうにも不憫でねぇ。だから、殆ど喋らなくなったあの子に対して、私も何も言えないんだ。お嬢ちゃんのように、心配してくれるパパもママもいないんだから……」
「おじいちゃん……なかないで」
「……あはは、お嬢ちゃんは優しい娘だね。名前を訊いてもいいかな?」
「みう」
「みうちゃんか、いい名前だね」
「えへへ」
「じゃあ、みうちゃん、孫に会ってくれるかい?」
「うん、いいよ」
「ありがとう。やっぱりみうちゃんは優しい娘だ。じゃあ、一緒に来てくれるかい?」
「うん」
「……孫はかなり気むずかしいけど、みうちゃんのような娘なら大丈夫だ。きっと仲良くなれるよ」
「……なまえは、なんてゆうの?」
「あ、孫の名前は『びゃくえん』っていうんだ」
「びゃくえん……」
「変わった名前だろう。私がつけたんだよ」
「でも、なんだかかっこいい」
「あはは、ありがとう。びゃくえんにも言ってやってくれな。喜ぶよ」
「…………」
「……ほら、もうすぐだよ。この樹を曲がったらすぐに見える。ほら」
「……おっきなうちー」
「大きいだけで、寂しいものだよ。家っていうのは、建物のことなんかじゃないんだ。家族のことなんだよ」
「かぞくが、うちなの?」
「そう。だから、私の『うち』は、随分と寂しく、みすぼらしいものだよ。こんな、殻のような大きな建物があっても、ね」
「ふぅん……」
「さあ、上がって」
「おじゃましまーす」
「お、偉いねー、ちゃんと挨拶が出来るんだね」
「えへ」
「さぁ、こっちだよ。びゃくえんは、二階の部屋にいるんだ」
「すごーい、じぶんのへや……」
「お嬢ちゃんの部屋はないのかい?」
「みうのうち、せまいもん。じぶんのへや、ほしいのに」
「それなら、この家にはいくつも空き部屋がある。ひとつ、みうちゃんに進呈しよう」
「ほんとー」
「ああ、ほんとだよ。そのかわり、たまに遊びに来てくれるね」
「うんっ」
「……さぁ、ここだよ……びゃくえん、入るぞ」
「……へんじ、しないよ」
「いつものことさ。さ、入ろうか」
「はぁい」
「……またその遊びをしていたのか。あまり熱中するんじゃないと言ったのに」
「ひっ……」
「ほら、お友達を連れてきたぞ。そんなはしたない遊び、この娘に失礼じゃないか」
「……さ、さる……」
「ん? どうしたんだい、みうちゃん。自己紹介、してごらん」
「だ、だって、さる、しろいさるだよー」
「何言ってるんだい。あれが私の孫の、びゃくえんだよ。ほら、びゃくえんもご挨拶しないか」
「さるが、おちんちん、こすってる……」
「みうちゃん、いくらびゃくえんが猿に似ているからって、そういうことを言うのは失礼だよ。びゃくえんと一緒だ」
「ち、ちがうぅ、みう、さるじゃないもん」
「みうちゃん!」
「かっ、かえるぅ。おうち、かえるぅ〜」
「……駄目だよ、約束は守らなきゃ」
「かえして、おうちにかえして」
「びゃくえんと遊んでくれたら、ちゃんと送ってあげるからね」
「やだ、かえるぅ」
「……こら、びゃくえんも何か言いなさい。そうしないと、みうちゃんは帰っちゃうぞ。せっかくのお友達なのに」
「……やぁ、さるがこっちにくるぅ〜」
「よしよし。じゃあ、私はここで休んでるから、あとは二人で仲良く遊びなさい」
「やだっ、たすけて、たすけて……」
「びゃくえん、女の子を苛めるのは感心しないな。女の子には優しくしろと、いつも教えているだろう?」
「やだぁー、まま、たすけて……ふくが、ふくが……」
「またその遊びか。ま、ほどほどにするんだぞ」
「なめないでー、きもちわるいよぉ」
「……それにしても、お前は現金だよ。お友達を連れてきたときだけ、元気になる」
「……やんっ、ぱんつが……あっ」
「こうやって元気なお前を見ていると、亜矢子のおっぱいを必死に飲んでいた頃を思い出すよ」
「ぬるぬるするー、きもちわるいよぉ」
「亜矢子が療養に来ると言って、お前を抱いて訪ねてきた時、正直に言うと私もお前を猿と見間違えたんだよ。亜矢子が子供を生んだなんて、聞いてなかったしな」
「たすけて、こわい、こわいよぉ、おちんちんが、おちんちんが……」
「父親が誰かだなんて気にしないから、さっさと話してくれればよかったんだよ。亜矢子もお前に似て、内向的だったからなぁ」
「やだあっ、たすけてっ、こわい、やぁっ」
「……亜矢子がお前を残して死んだ時、私は本当にどうしようかと思ったよ。こんなおいぼれ一人で育てられるものかどうか。でも、親はなくとも子は育つものだ。気むずかしくはなってしまったが、お前はちゃんと育ってくれたな、『白猿』」
「いたっ、いたい、いたいいたい、いたいよぉっ!」
「……知ってたさ、知ってたさ。お前が猿だなんてことぐらい。お前を人間だと思っていたのは、娘の亜矢子だけだ。お前を実の息子だと、好きな男との子だと言い張って病院に入れられた結果の、療養生活だったんだ」
「いたいっ、たすけ、たすけて、いたい、いたいぃっ」
「亜矢子が死んだ今、お前は本来自然に帰るべきなんだよ。だが、お前は帰ろうとしない。亜矢子を母と慕い、亜矢子を愛していたお前は、自分が猿だとはわからなくなっていたんだ」
「いたいよぉっ、しんじゃう、みう、しんじゃうの」
「……なら、私もそう思ってやるしかないじゃないか。亜矢子の思い、お前の思い、どちらも私には否定できない。なら、私もそう思うしか、ないじゃないか……」
「いたいいたい、ち、ちが、いたい、こわれる、みう、しんじゃう」
「……お前は私の孫だよ、『白猿』。亜矢子の産み落とした、不倫相手との子なんだ。猿なんかじゃない。亜矢子は気が狂ってなんか、いなかったんだから……」
「……あがっ」
「そして私は、孫に甘いおじいちゃんだ。お前のためなら、私は何度でも、お友達を連れてきてやるよ」
「…………」
「……なんだ、また壊しちゃったのか。お前は加減を知らないなぁ。『お友達』は大切にしないと、誰も遊んでくれなくなっちゃうぞ」
「…………」
「仕方ない、みうちゃんはおうちに帰してやるか。みうちゃん、おうちはどこだい?」
「…………」
「……じゃあ、とりあえず隣の部屋をあげるよ。泊まっていくといい。明日には、またびゃくえんと遊んでやってくれ」
「……………………」



終わり